ここハンガリーにて、少数民族のサポートをしたいと考えている方と出会った。
その時印象深かったのが、
話題がヨーロッパに居る
ロマの人々についての話になっとき、
「こういう話は公にはし辛いので」
と、その方が急に声を小さくされたことだ。
その理由は近年の景気悪化とともに、ハンガリーでは右派運動が勢いづいているからだという。
特に職の無い若者の中で、そういった運動に参加している人々は過激な手段に出ることがチラホラ出てきているとのこと。
「やっぱりなぁ。」
というのが私の感想である。
人間はいつの時代も、自分自身が困窮すると自分よりもさらに弱い他者のせいにして、他者を苦しめることで自分自身を満足させようと試みてきた。
そして、その際の他者とは概して、外国人、他民族の人々であった。
平たくいうと、
生活が苦しくなったらレイシズムは勢いを増す傾向にあるように感じている。
「俺たちの仕事が無いのはアイツらのせいだ。」
なんて台詞が大っぴらに聞こえる以前にも、私たちが意識するにせよ、しないにせよ、私たちはそういう心の逃げ道に入り込みがちだと思う。
自分よりも弱い誰かのせいにして、誰かを傷つけることで、
今日の空虚を忘れることができるし、明日への不安を紛らわすことができる。
それらを踏まえた上で考える。
たぶん、
私たちが歴史から学ぶべきことはたくさんあると思うけれど、
そのうち最も重要なことは二つ。
その一つは、
「人間が如何に怠惰で弱い生き物か」
ということだろう。
苦しくなったら、誰かのせいにする。そういった心の作用が悪いことだとは思わない。苦しくなったら誰だって、逃げ出したくなるのは当たり前。
ただ、それでは真の平安には程遠いんだろうし、いつか自分が強者によって同じ目に合わされるんだ、ということを自覚しておく必要はある。
それが嫌ならまず
私達は他者に向けている刃を収めなければならない。
また一方で、歴史には
「真に誇り高い人々」の姿もみられる。
彼らは決して自らを高めるために他者を蔑むようなことはしなかった。
なぜなら、他者を蔑むことでは自分も家族も救われることはなく、むしろ自分自身が弱く、醜くなっていくことを知っているからだ。
「真に誇り高い人々」はしばしば
歴史の中で無残な最後を余儀なくされる。
理不尽な要求。
堪え難い屈辱。
望まぬ死。
そんな絶望の中にいても、
それでも、なお、弱者を苦しめるような行為は恥ずかしいこととして自戒し続けることのできた人々。
私たちはそういう人々の姿から、
「人間が如何に怠惰で弱い生き物か」
ということの先に、
「人間は怠惰で弱い生き物だが、それらを克服することのできる生き物だ。」
というもう一つの教訓を学ぶことができる。
だからこそ、
そのために私たちは一度
日本の歴史をまっさらな気持ちで、自らの手で、掘り起こさなければならない。
先人たちの「真に誇り高き姿」を
見つめ直さなければならない、
と感じている。
以上
次はオーストリアへ移ります。
「ウィーン行政の遊び心が凄い件。
」です。
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