2012-05-21

「災い転じて福となす?鉄輪ひょうたん温泉みたいな滝湯」世界八十八湯温泉巡@エチオピア、ソドレ温泉

アワシュ国立公園で出会った
後味の悪いピンチから逃れるように
足早にアディスアベバへと続く道を、
ミニバスで走ります。

温泉に入れなかった悔しさに
イラついていますが、、

引きずっていてもしょうがない!!

気を取り直して、
次の温泉地ソドレに向かいましょう。

ソドレ温泉は温泉リゾートらしく、
アワシュからアディスアベバに向かう道の途中にあるアワサという街を拠点にしてバスでアクセスできます。

アワシュから約二時間
アワサ到着後
街の人に聞いて回ったら、すぐに
ソドレ温泉へのバスが見つかりましたが、すでに時刻は夕方6時。

とりあえず今日はアワサに一泊して
明朝出直すことに。

精神的にだいぶ疲れも溜まっていたのでこの日は少し良い宿(1泊1000円くらい)に泊まることにします。エアコン、テレビ、ホットシャワー付きの贅沢な部屋!でゆっくり。

夜は街のカフェで軽い晩ご飯
アワサのフルーツジュース(ストロベリー)は美味しかったぁ、、、


さてすっかり元気を取り戻した翌朝、
バス(片道10ブル)に乗り込みソドレ温泉へ向かいます。

バス車内は地元の人ばっかり、ソドレ温泉はエチオピアでも有名な温泉地なんだって。

アワサからソドレまでは
小一時間で到着。

到着後に温泉地ゲート前で
写真をとろうとしていると、

とある夫婦に
突然流暢な英語で

「写真撮ってあげようか?」

と声をかけられました。

見たところ地元のセレブっぽいその夫婦は、実はエチオピア出身のアメリカ在住カップル。

なので英語も流暢。

奥さんの兄妹の結婚式に出るため帰国。
ついでにエチオピアを一月かけて旅行しているとのこと。

ジャイアンみたいな旦那さんと
あっという間に意気投合して、
一緒に温泉を楽しむことになりました。

ソドレ温泉は一つの広大なリゾート施設で、ゲートから温泉までに15分くらい歩かされます。

施設内には
コテージやプールやら
まぁ、いろいろ。
(そんなに綺麗じゃない)

さて、肝心の温泉はというと
別府鉄輪のひょうたん温泉ばりの
湯量豊富な滝湯となっております。

しかも露天。

もちろん男女で別れていますが、
皆さん水着着用。

泉温も高く、
地元の人達は
身体を洗ったり、腰に湯を当てたりと
思い思いにのんびり過ごしています。

浴場にいる誰もが皆親切で、
エチオピアの素朴なホスピタリティにも感動できますよ。きっと。

ただし、
ここには野生の猿が群生しているので、光るものなどの管理には注意して下さい。

猿たちに持ってかれることも
しばしば、あるらしいです。


さて気持ち良い温泉を
たっぷり楽しんだあとは、
ジャイアン夫婦と昼食。

その後、アディスアベバまでの道中をご一緒させていただきました。(心強い)

さらに
翌日のディナーにまで
誘ってもらいました。

そこでも、
二人の家族や友人をたくさん紹介してもらい、別れ際にはアメリカでの再会を誓い合ったのでした。

アワシュでは
何だかんだありましたが、
災い転じて福となす。

結果として、
アメリカに二人の新しい家族ができるという素晴らしい出逢いを得ることができたのでした。


以上



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2012-05-12

「入湯失敗、あわや袋だたき!?」 世界八十八湯温泉巡@アワシュ、エチオピア。


世界八十八湯温泉巡りというのも、
タイトルの浮かれ加減とは裏腹に
言葉の通じない国で、
地図も持たずに温泉を求め彷徨うわけですから、結構大変なんです。


今回はエチオピア、アワシュ国立公園内の温泉を目指した時のお話。

アワシュ国立公園は
エチオピアの首都アディスアベバかバスで四時間くらいのところにあり、
私は西の街ハラルからの帰りに立ち寄ることにしました。

正直、前情報もほとんどなく、
現地で車をチャーターするしかない。

という状態で、
アワシュの街に降り立ちました。

英語もあまり通じない中、
一人の若者が「600ブルで行ってやる」と流暢な英語で声をかけてきたので、交渉して200ブル(約1000円)で温泉までの往復を頼みました。

まぁ、この時点で少し嫌な感じはしてたけど、、、

その兄さんの後に着いていくと
ハイエースが一台。

「俺一人これに乗っていくのか?」
と、訝しんでいると案の定、
他に二人男が乗り込んできた。

兄さんの兄弟だという二人。
途中の村まで行くらしい。

とりあえず、
公園にむけて出発。

街から国立公園の入口までは
15キロ。その間はただ荒野が続く。

公園ゲートにつくと、
入場料を支払うために事務所へ。

そこで、お兄さんの態度が豹変した。

わざとらしく園内の地図を見たあと、

「温泉までこんなに遠いとは思わなかった。600払って貰わないと行かない。」

と言い出したのだ。

「あぁ、やっぱりそう来たか。」

と思いながら、
温泉までの道を知っていると行ってたからお願いしたんだよ。

と理路整然と反論したが、
お兄ちゃんは途中からは英語がわからないふりをしはじめた。

頭に来たので、
「じゃあもういいから、
約束違うからお金払わないよ。」

と言って
もと来た道を街の方向へ歩き出した。

すると、しばらくして
車で追っかけてきて

「ここまで来たガソリン代として
200ブルよこせ!」

と兄さんは再び流暢な英語で
怒鳴ってきた。

無視して歩いていると
直後、三人の男が一斉に車を降りて、私を取り囲むように迫ってきた。


マズイ、、、
このままじゃ、
完全に袋だたきにあう。

そこで一目散に国立公園ゲートへ走って戻りレンジャーらしき人に助けを求めた。

その後も再び兄さん達が戻ってきてしつこく「200ブルよこすまでは帰らない」とのこと。

レンジャーも
「約束通り払ってやれよ」と彼ら側。

もういいや。安全第一。

結局200ブル渡して、
国立公園の温泉も諦めて、
さっさと次の街へ向かうことにしました。

兄さんの去り際の
高笑いが今でも印象に残ってます。


ちなみに、
こんな事があったからといって
エチオピアの治安は悪いとか、
人が悪いってことではありません。

こんなことは何処の国でも
まぁ、起こることです。

エチオピアとってもいいところだし、
ほとんどの人はとても親切ですよ。

ご安心あれ!!


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2012-05-07

『ラオスに近代的な薬局を』 APU卒業生インタビュー 第10弾 ラオス スーダリーさん

APU一期生のスーダリーさんとは初対面の私たち。

私たちがラオスを訪れた10月末頃は
ラオスの結婚式シーズンとのことで、
スーダリーさんも友人の結婚式などで大忙し。
それでも、突然の私たちの訪問を大変快く迎えてくださいました。

インタビューを実施したのはビエンチャンのとある食堂。
ランチに豚肉のかたまりがゴロゴロはいった汁麺(米とタピオカからできた麺)と
ココナッツジュースをご馳走していただきました。

また、車で街中を案内していただいたり、
この時期のラオスのお祭りについていろいろ教えてもらったり。
やっぱり現地のことは現地にいる人に聞くのが一番!

そんなホスピタリティ溢れる姉御肌のスーダリーさん。
彼女とのインタビューを、以下ご覧ください。
_________________________________

<プロフィール>

(写真:facebookより)

氏名  Soudalie Silaphet さん
出身国 ラオス(ルアンパバーン出身、ビエンチャン在住)
卒業年 2004年秋
学部  APM
職業  2004~2009国連勤務
国連退職後はラオス初となる先進的な薬局チェーン
『Poppys Pharmacy & Beauty』を経営

***********************************************

以下インタビューは英語で行い、日本語訳しております。
KはKentaro CはChiaki その他がご本人の発言です。

Q、現在の仕事に至るまで

K. 薬局を始める前は何をしてたの?

卒業後すぐに国連で働きだしたわ。
辞める前しばらくは東ティモールで働いていたの。

K. そりゃ面白いね。すごいね。

つまらなかったよ。疲れた(笑)。

K. 国連職員になろうと思ったのはいつごろ?

APUを卒業してラオスに戻ってから。
(奨学金の決まりで)ラオスに戻って、
なんでもいいからラオスで働いて貢献しなきゃいけなかったの。
だから、卒業したらまずラオスに戻って、できそうな仕事を探したの。
そしたら国連職員の空きがあって、申し込んでOKだったわけ。

K. 随分あっさり言うね(笑)。国連では何をしてたの?どの部署にいたの?

あるプロジェクトのプロジェクトマネージャーだったの。

C. 東ティモールの復興プロジェクトとか?

いやいや、東ティモールのときは、主にリサーチ関係だったわ。

K. 東ティモールで働いていたときはどこに住んでたの?

ティモールに住んでいたわ。

C. ティモールの言葉がわかるの?

まさか(笑)。彼らはポルトガル語を話すのよ。

K. ティモールには何年いたの?

結局、一か月だけ。政権が変わってね。常に争ってばかり。
あとはほとんどラオスに住んで、ここを拠点に国連の仕事をしていたわ。
でも、外に出ることが本当に多くて。

C. 外に出るって、旅行じゃないよね。出張(business trip)?

あれはビジネスとすら言えないわね、
そもそも私には関係ないし(none of my business)!(笑)

K. なるほどね(笑)

本当にくたくただったわ。2005年には、毎週のように出張に出ていて。

C. 病気にはならなかった?

ううん。疲れてただけ。休みなんてほとんどなかったし。

C. 忙しすぎたから国連を辞めたの(笑)?

それは違うの。国連での仕事が気に入らなくて。
彼らのアプローチややり方が好きになれず、私の情熱も冷めちゃった(笑)。

K. 具体的に言うとどんなやり方が?

あまりに駆け引きや無駄な話し合いが多くてね。

K. ちなみにどうして国連に入ったの?

好きな仕事だと思ったからね(笑)。

K. 実際、国連での仕事は大変でしたか?

大変、というよりは…力関係や駆け引きとか、人間関係とか。

K. そういうのが嫌い?

国連のシステム自体が、物事をなかなかうまくいかないようにしていると感じたの。
組織自体が大きすぎて変われないし、そこで働く人々も変わることを良しとしない。

K. なるほど。

組織内にあまりに駆け引きが溢れているし、
働く人も海外からの駐在スタッフと地元のスタッフとの間に格差があって、
私は差別的だと感じた。
例えば、お給料なんか全然違うしね。
待遇や手当、その他もろもろ全て違う。

K. そうなんや。

私は、国連の基本原則は人類を平等にすることかと思っていたけど、
そうじゃなかった。
スタッフには必要以上にお金をかけている。
大きな車や事務所、出張費とかね。
国連は貧しい人々のために現地に赴いているはずなのに、
その貧しい人々にそういったお金はまわらないのよ。
派手な会議や議論に報告書ばっかり。

K. 別なところでも聞いた話やな(笑)。

そりゃ、私も幾分手当を享受したけど…
国連での仕事は最終的に人々を助けるべきなのに、それができていない。
結局、国連で私たちがやっていたのは話合いだけ。
偉い人々が話合いをしたり学術的なことを議論したりするばかり。
そして「自分たちに何ができるか」を話し合っているのに、
実際には何も行動に移さない。

K. う~ん、どこも似たりよったりなんやね(笑)。

それで私の情熱は冷めちゃった。
人助けはもう終わり!むしろ私を助けて!(笑)

C. 国連だけじゃなくて、大きな組織ならどこでもありえることだね。

K. そして、今の仕事を始めたわけだね。ラオスで薬局を。
ラオスは大好き?

ええ。外国に住むのは好きじゃないの。
ラオスは居心地が良くて。こじんまりしているし。家もここにあるし。
飛行機に乗るのに人とケンカしなくていいし(笑)
自分の車を5分、10分も運転すれば事足りる。
ま、どのみち海外を飛び回っているんだけど。
でも、ラオスが私の家ね。

K. なるほどね。

C. けど国連から薬局経営って、また大きな変化だね。
薬や健康に興味があったの?

私の薬局は、ラオスで最初の近代的な薬局なの。
ラオスの普通の薬局って、冷房もないし、
薬を床に置いたりして、薬を保管する設備がなってないのよ。

C. えー!そうなの!?

だから薬の品質にも影響しちゃうでしょ。
あと、うちのお店は薬の他にも美容品とかも置いているの。

K. 従業員は何人?

今は二店舗あって、その中で薬剤師が9人と…全部で15人くらいかな。

K、需要ありそう!これからさらに増やしていくんやね。

Q、APU時代について

K. 大学生時代はどこに住んでましたか?

最初はAPハウス。
で、石垣…5丁目?に引っ越して1年ほど住んで、
そのあとラオス人とカンボジア人の学生とシェアを始めたの。
石垣の家は…近くに何があったか…覚えてないなぁ(笑)。

K. もう10年になるもんね(笑)。

そこの近くのバス停だとバスがなかなか来ないのよね。
で、石垣から大通りのほうに引っ越したの。
山から下りてすぐのところ。電車の駅との間あたり。

K. サークルかクラブ活動かは、何かしてた?

あんまり。
日本の楽器、えーっと、なんだっけ、
そう!お琴を習い始めて、爪も買ったんだけど。
でも、全然続かなかった(笑)

C. お琴はAPUで習ってたの?

そう、APUでやっていたのよ。でも高いよね。学生向きじゃないわ。
それもあって辞めた(笑)

C. じゃサークルとかよりは勉強に集中してたの?もしくはバイトとか?

うーん、あんまりしてないなぁ。私何してたっけ(笑)?
大学が休みに入ると、たいてい実家に戻ってた。
母が一人で住んでたからね。
でも、旅行もしたな。北海道の帯広にスキーに行ったわ。
あと広島。
東京は兄弟がいるからしょっちゅう行ってた。
あと、神戸、大阪にも友達がいるから行ったわね。
私、他のAPUの学生より年がちょっと上だったから、
友達の多くは別の大学に行ってたの。

C. なるほど。ちなみに入学したのは何歳のとき?

23歳。オーストラリアの大学に通ってからAPUに入ったから。

C. そっか、それで英語がそんなに上手なんだね。

K. ゼミは久原先生ね。専攻は?

APUには専攻っていうのはなかったよね。研究テーマは選べるけど。
APUってなんか変わった授業のカリキュラムの仕組みだったよね。
私たちは一期生だったっていうのもあって、
大学側がカリキュラムを常に調整してたし。
いっつも変更ばっかりだった。
オーストラリアとか、私が今まで勉強した大学って
研究科目は3つか4つしかなかった。
3つもあれば、もう十分って感じかな。
でもAPUだと10科目はあったわね。ちょっと多過ぎ(笑)。

K. カリキュラムに関してはみんな同じようなことを言ってるよ(笑)。
ちなみに学生時代に一番力を入れたことは?

そうね…、APハウスではみんなパーティに夢中になってたけど、
私は参加してなかったな。
で、パーティの最中にレモンが足りなくなると、
みんな私の部屋にもらいにくるの(笑)

C. 卒論のテーマは?

あれ、忘れちゃった。何書いたっけ?本当に。
MBAのコースがあったから、学年の最後のほうはそれをやってたんだけど。
参加者は私の他に3人だけ。
中国人が2人に、カンボジア人が1人。

C. んじゃ、勉強に一番力を入れてたってことになるのかな。

勉強が一番好きってわけじゃないけどね。
勉強しかやることがなかったって感じかな(笑)

K. APU時代に一番大変だったことは?

いろんな環境に慣れることかな。
例えば、カリキュラムなんかが調整のためにしょっちゅう変更になるとか、
そういうのには慣れてなかったから。

K. ならAPU時代の一番の思い出は?

日本食は大好きだった。
あと、近所のおばあさん達とたくさん友達になったな。
困ったことがないかいつも様子を見に来てくれて。
私たちがちゃんと意思疎通できていたかは微妙だけど、
でも、たくさんおしゃべりして楽しかった(笑)

C. 何歳くらいのおばあさん?

もうかなりお年のおばあさんたちよ。石垣のね。
いつも近所を散歩してるの。よく挨拶したわ。

C. いいねー。

もちろんAPUでもたくさん大事な友達ができたわ。
本当、Facebookのおかげで今でも世界中にいるみんなの近況が良くわかるし助かってる。
外国に行くときはいつも連絡をするようにしてるわ。
特にバンコクにいる友達とかね。ラオスにもみんな結構来るし。

K. 別府は好き?

物価が高いけど、いいところね。
温泉には恥ずかしいから入れなかったの。
一度友達と行ったことがあるけど、
そこでおばあさんに「脱いで!脱いで!」って言われて(笑)
入らないであきらめちゃった(笑)

C. そんな~(笑)!ちなみに別府でお気に入りの場所ってある?

APU生がみんな行くあの場所。ほら、ジョイフル!
そこで友達と過ごすのが楽しかったな。
あとは、買い物をしに大分に行ったり。

K. 仲の良かった先生っている?

久原先生はいい先生だったわ。
あと、覚えてるのはエジプト人のムスタファ先生。
会計の先生ですごく大きい人なんだけど、
学生が話を聞かないといつも机をバンバン叩くの。面白い先生。

K. そもそも、なぜAPUに入ったの?

奨学金がもらえたからね。当時、ラオスの新聞広告で奨学生募集の広告を見つけてね。 
私の年代がその奨学金プログラムの第一号で、
大学がAPU以外に選択肢がなかったの。弟のときは別の大学も選べたけどね。

C. その時すでにオーストラリアで大学を出てるけど、まだ勉強を続けたかったの?

そう。研究内容はAPUと違うけど、でもまぁ似たようなものかな。
国連に入ったら、学術的な専門スキルは特に仕事では使わなかったけど、
でも学習した内容や研究の基礎的な部分は役に立ったかな。
国連で働いて、ニュージーランドにも1年ほど留学して、また国連に戻ったの。

K. なるほどね。ちなみに日本でのAPUでの勉強は役に立った?
APUは新しい大学だし、カリキュラムにも満足いかないものがあったんやない?

そんなことないよ。
まぁ、学部レベルの研究だし、
勉強だけがすべてじゃないからね。
たくさん友達を作ったり、楽しいこともたくさんあった。
日本食も恋しい(笑)。

Q、未来について

K. APUがよりよい大学になるために何か提言があれば。

完璧な大学を作るのは難しいことだけど、カリキュラムに関しては、
APUはアジア系の大学か西洋系の大学か、その違いを理解したうえで、
どちらのモデルに沿った大学作りをしていくかを選ばなきゃいけないわね。
つまり、日本を含めたアジア系の大学は、
一般的に複数の教科を導入しているし、
西洋系の大学はより専門を極めていくことを重視している。
この2つを中途半端に混ぜたカリキュラムをつくると、
とんでもないことになっちゃうのよ。

K. なるほどね。別府市に何か提言したいことある?

別府は今でも大好きよ。ちょうど良い規模ね。
仲良くなったおばあさんも恋しいわ。

K. 別府の人で誰か思い出に残っている人はいる?

いろんな人に親切にしてもらったわ。
不動産会社のおばさんで、私たちにすごくいい部屋を見つけてくれた人がいたな。
寝室が4部屋ある、海沿いの素適な部屋で、バスも目の前に停まるの。
しかも安いの。そこに3人で住んだけど、
学生にしては十分すぎる広さだったわ。名前はすっかり忘れちゃった…
しかも、そのおばさんは、冷蔵庫とか引越しに必要なものを
買いに行くのに付き合ってくれて。
普通、不動産屋さんはそんなことしないよね?

C. しないねー。

とっても親切な人だった。
おばさんの友人をたくさん紹介してくれて、
みんなでごはんを食べにいったりもしたよ。
40代後半くらいの人だったなぁ。

K. 今後の夢や目標は?

ラオスでは、そうね、商売を始めたばかりだから、
今後もっとフランチャイズを展開させたいわ。
ビエンチャン以外にもね。今の課題は店の指針ね。
うちの薬局のコンセプトはこの国にとってまだまだ新しいものだから、
サービスマインドとかいろいろ従業員に理解してもらえるように
トレーニングに励んでいるところ。
店の展開に間に合うといいけど。
とにかくチームワークが大事だからね。

C. お店のコンセプトって具体的に何?

薬と美容。そして、それだけじゃなくて、
質の高い商品やサービス、実務をどんどん取り入れていくこと。
ラオスの伝統的な薬局では、カウンターがあって
お客はお店の中には入らずカウンター越しに薬を買うけど、
うちはお客さんにお店の中に入ってもらって、
商品を見て、お店のスタッフと相談しながら買い物ができる。
まぁ、先進国ではよくある薬局の形だけどね。

K. プライベートな夢や目標はありますか?

そうね、健康を維持したいわ。
そして仕事じゃなくて、楽しみとして旅行したい。
いろんな国に行ってみたいの。南米とかアフリカとか。

K.  APU卒業生へのメッセージをもらえますか?

私の友達でも、日本に残って働いてる人もいるし、ロンドンで働いてる人もいる。
みんな人それぞれの道を進んで、それぞれ学んでるよね。それで良いと思う(笑)。

K. では現役のAPU生に何かメッセージを。

とにかく卒業前、特に学部生の間は学生生活やその時の環境を楽しむことが大事よね。
そしてたくさん友達を作ること!
賢と千明が今ラオスに来ているように、将来どこにいるかもわからないしね。
けど、卒業すると、本当の意味で人生が始まるし、困難もたくさんある。

K. たしかにね。そう言う予測不能な未来にむかうときに
「解りあえる友人」っていうのは何よりの心強い味方だよね。
僕ら自身旅の中で、つくづく実感してるよ(笑)
インタビューは以上になります。忙しい中時間割いてくれてありがとう!

以上。

(インタビュー実施日:2011/10/30)

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2012-05-04

俺たちの子供のころは日本製品なんて、バカにされていた。 日本考 エチオピア編


前回もお伝えしたように、
アディスアベバではカウチサ-フィンで
お世話になったお宅が、なぜか夜な夜な
近所のセレブなおじさまたちが集まる場所だったので、
いろんな話をきけました。

あるとき同じ家に宿泊していた日本人の旅人さんから、
セレブのおじさま方が、

俺たちが子供のころは日本製品なんてバカにされてたな。

と話していたと、聞きました。

そこで
どういうことなのか実際に確かめてみると
おじさまたちの話には、


戦後はなんでもヨーロッパやアメリカのものが一番よくて、
その中に出てきた日本製品なんて、みんなバカにしてたんだよ。
安いけど、どうせすぐ壊れる。みっともないってね。

でも、今じゃ、日本製品が一番良い!!に変わっている。
テレビにしたって、車にしたってそうだ。
ま、高いからなかなか手は出せないけど。

そして、いまは中国製品がバカにされてるんだよ。
はっはっはっ!!

ということでした。


さすがに日本のモノづくりの評価は
ここアフリカでも高いな。

と感じたのと同時に、
私自身は、正直この時ドキリ!としたのです。


だって、今ある
日本製品は素晴らしい!!っていう考えも

30年経たらどうなるかわからない。ってことでしょう。
ありえないとは言い切れない。

ポイントはきっと、
ハングリーさだと思う。

それを持つ人たちと、
それを忘れた人達の差が、
やはり長い年月を経たのち、
優劣として現れるんだと思う。

能力や、性質で、素質で誇ることはできるが、
姿勢はそれらのハンディを補って余りある要素。


油断大敵

以上


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