2012-04-29

「神戸ビーフは、もはや牛肉じゃない。」 観光JAPON@エチオピア

エチオピアの首都アディスアベバはすごく良いとこです。

フルーツジュースは美味しいし、
ドーナツとブンナ(コーヒー)の組み合わせなんて、たまりません。

さて、ここアディスでもカウチホストに お世話になっておりました。
面白いことに、そのお宅には地元のセレブなおっさんが夜な夜な集まっては、
酒盛りを交わしていたのです。

メンバーはみな、ビジネスオーナーとか、大地主の息子とか
まぁそんな感じなんです。


そこで、面白い話を聞かされました。

 あるアメリカ帰りの紳士が、

「神戸ビーフはよく食べるのかい?」と聞いてきたので、

「いや、ほとんど食べないよ。高いからね。」と答える会話から始まりました。

彼いわく、
「神戸ビーフは、もはや牛肉じゃない。」とのこと、

アメリカにいたときに何度か神戸ビーフを出すステーキハウスに行ったとかで、
その美味しさを、新鮮な表情で私とその場にいた仲間達に語ってくれました。

その場にいた何人かは、
「そんなに美味しいなら、一度食べに日本に行くか?」

なんて話しており、
あながち冗談でもなさそうでした。


このことから、
日本の食文化について
改めて見つめなおしてみたのですが、

やっぱり、
日本食って美味しいですよ。

寿司とかに代表されるいわゆる「珍しい」ものが
外国人には人気になっている。

そんな風に捉えている方は多いと思います。

しかし、大前提として
日本人の味覚の鋭さと、
食材の豊かさが存在するのです。

その上に織り成された食文化は、
やはり異文化の人々にとっても、
魅力的なものとして訴えるエネルギーをもっていると感じています。

しかし、現状は
寿司、てんぷらなんてものに代表される、
一部しか売り出せていないのかな?というのが実感です。

それどころか、
タイで経験したことなんですが、
ある国の企業が、とても日本食とは呼んでほしくない、
まずい料理を日本食レストランとして出しているなんてこともありました。

しかも、結構繁盛しちゃってる。

あれを、
日本食だなんて思われたら、
日本の魅力半減ですよ。
 
食の積極外交、アピールは
日本の観光活性にも直結する問題だということです。

以上


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2012-04-26

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾 森本喜久男さん④

Q、中学高校時代にお好きな本とか、作家さんとかって何かありますか?
「特にない。
僕はいろんな人の本を読んでいた。
例えば中学生の頃は谷崎潤一郎に読みふけっていたりね。
だから好きな本とかは無い。
けど、大事なことは
なんでもいいから大切な本に出逢うことさ。

本を読むって、やっぱり過去の人達の知恵を学ぶことでしょ。 
一日は24時間しか無いんだから、
そういう時間をどれだけ取れるかだよね。」

K.「そうですね。
けれど、いまの若い人達って、
ノイズというか、雑な情報に囲まれていて
なかなかきっかけが無いと
『読書しよう!』ってなりづらいんだと思うんですよ。」

「そういう意味でいったらね、
僕は家に閉じこもっていないでね、
街に出て、現場に立って、自分の肌で感じてみることを
オススメするよ。」

K.「なるほど」

「頭で考える時代はもう終わった。
身体で感じること。それが大切。」

K.「そうですね。」

「頭で考えてね。コンピューターの前で抽象的な概念だけ考えてるなんて
もう限界よ。自分の目で見て、肌で触れて、そういうことをしないと。」

K.「いいですね。」

「あのね。
頭で考えるから『解る』『解らない』って思うさ。
けどね人間の身体ってのはそうじゃないから。
『解らない』ってことは身体には無いから。」

K.「う~ん。なるほど」

「冷たいだったら、冷たいし、
温かいだったら温かいでね。感じる事はできるんだよ。
『解る』『解らない』ってのは抽象の概念、
いわゆる形而上の概念だよ。
形而下だったら違うんだよ。」

K.「そうですね~。面白いな~。
それに結果として、そういう風に身体で体験していけば
知りたいこととかって自然に出てくるんですよね。」

「そうそうそう。」

K.「そこで始めて本との出逢いとかが
出てくるわけですよね。」

「そう。だから汚い水飲んで、七転八倒してもいいさ。
その上で、じゃあ。って話。」

K.「知識じゃなくてね。」

「知識じゃなくて、思想さ。
そういう意味では、いまの日本って思想が欠落してるんだよ。」

K.「そう思います。
部屋でずっと書籍に埋もれて、パソコンに向かってて、
そこから世界の事が解ったなんて言っても
それは知識の集積であって、
そこから思想は生まれないですよね。」

「そう。それはただ『思ってる』だけ。」

K.「やっぱり『現場』とか『リアリティ』ってのがキーワードになってきますよね。」

Q、若いころ、尊敬していた人とか憧れていた人とかいましたか?

「ない(笑)。けれど、そう言う意味でいったら
僕にとってはそこで暮らしている人達さ、現場の人達。

若い時からいろんな現場を経験してきたから、
例えばアルバイトで横浜の港で、沖仲士、船出しで
コンテナとか無い時代に、人力で担いで荷出ししたりね。 
絵を書くための絵具買ったり。
そこで働いてたら、おやじと同じ給料もらえるのさ。
そんな暮らししながら、油絵をやってたんだけど、
横浜の寿っていう、街があって
そこでおっちゃん達と一緒に酒飲んだりして、
ぼくはそこで見てきたものがあるさ。

普通尊敬するひとって言うと
偉い人っていう人がいるでしょう。
僕にとっては、そうではなくて
普通に町場で生きている人さ。
僕にとってはそうだよ。」

K.「これも面白い。素晴らしいですね。
そういう風に考えられると、
おそらくですけど、ずっと楽しいですよね?」

「そうそう。」

K.「目の前に居る人とか、
あらゆるものに興味が尽きないわけですもんね。」

「とてもリアル(笑)」

K.「とてもリアルですね(笑)」

「僕は嫌なことやらない。
うちの皆にもいうんだよ『嫌なことはやらなくて良い』って。
それを見てる人がさ
『300人にそんなこと言って、それで本当に会社って回るんですか?』
って聞くの。でもそれは違うんだよね。それは頭で考えてるからそうなる。

頭で考えてしたい仕事と、身体で考えてしたい仕事は違う。
身体には個性があるから。
頭で考えるから、みんな特定の仕事に集中しちゃうのさ。」

K.「うん。面白い(笑)そうですね。
身体は違いますもんね。」

K.「日本にはたまに帰られるんですか?」

「たまに。
僕は本当は日本に帰った時には、こういう話をしたいんだけど、
織物の話を聞かせてくれって言われるんだよね(笑)」

「布の向こうに見える世界。
東南アジアのなんていうのかな混沌。
その歴史は融合されていく、
アウフハーベンされていく
エネルギーのあるものどうしが対立せずに
融合していく。」

K.「中国の陰陽の考えにも通じますね。」

「そう対立から秩序にかわっていくんだよ。
日本の2000年の歴史もそうじゃん。
新しいものが入ってきて、時には対立するけど、
やがて受け入れて新たな文化となっていく。」

K.「そうですね。
日本の受容性っていうのは凄いんですね。
それはきっと日本人がずっと自然に対してフレキシブルで在り続けた…」

「事の結果だと思う。
だから、自然に対してフレキシブルに対応できるということ 
ことがとても大切なことだし、素晴らしいこと。」

K.「いや~面白いな。」

************************************************************

K.「昨日おっしゃっていた
これからの世界が人間経済になっていく、という直感は
どういったきっかけで持たれるようになったんですか?」

「(笑)ここ十年ぐらいの世界の格付けとか、ISOとか 
ああいうのなんてインチキだよ。彼らは利権集団だからね。
それをつけることで彼ら自身の利権を守る。
そういうのに世界が振り回されている。
『虚の世界』から『虚の虚』の世界になってしまってる。」

K.「おっしゃる通りだと思います。」

「これからもっと混乱すると思うよ。
人間って行きつくところまで行かないと気づけないから(笑)」

K.「なるほど」

「ただ僕は、その先にある『人間にとって何が必要なのか?』
っていうことを『お金じゃないんだよ』ってことを考えてる。
おカネも元は兌換だったわけでしょう。
それが今もう崩壊している。
みんなそのことを隠してるんだよね(笑)。」

K.「それは僕も金融の現場にいた時から感じていました。
みんな気づかないフリをしてるな~って(笑)」

「右肩上がりの、生産性をあげて行く、収益を上げて行く
つきつめればおカネを稼ぐ。
それに血眼になる。それが行きつくところまで来てね。」

K.「なるほど」

「きっと世界のそういった仕組みをコントロールしている人達もいるんだろうけど、
彼らも生身の人間だからね。
頭で考えていることと、ヒューマンとしての自分が
いつかぶつかる時がくる。それが極よ。
その状況がいまから10年後位にくるんじゃないかと考えている。」

K.「それに関しては同意見ですね。
証券マン時代に『おカネって何だろう?』ってことを
ずっと考えていて、その結果やっぱりニクソンショック以来
おカネってやっぱり紙になっちゃったんですよね。
刷りたいだけ、いくらでも刷れるんだから。
その仕組みがどこかで破綻する、
これは良く考えれば誰でも解ることですよね。
だから一部の人達が仕組みをより複雑にして、
挙句の果てに、自分たちにも良く解らないようにしてる。
そんな感じを受けています。」

「結局その先で、
借金まで債券にして売っちゃうってことやってるわけでしょう。
これは極の極だよね(笑)。

100円の商品が50円になっても、10円になってもいいのさ。
それでもみんなの生活は一緒なのさ。
その代わり虚の世界はすべて切り捨てられる。」

K.「そんな中で、ウチの父はずっと田んぼをやってるんですよ。
稼ぐためではなくて、荒らさないために。
でもそれって見方を変えると『強い』な~って思うんです。」

「強い!
ぼくがカンボジアで村のおっちゃん達と話してるとね
『家族が一年食べる米があって、それ以上何が要るんだ?』って言うわけ。
これ核心よ。」

K.「核心。」

「実は『伝統の森』を始める当時、
織物が残っていた村は少ししかなかった、
彼らは結局家族が食べて行くだけの米を作れる
田んぼをもってない、貧しい人達だったの。
米がとれないから、織物を作って現金収入を稼いでた。
だから貧しさのおかげで、伝統的な織物が残っていたんだよ。」 

K.「なるほど。」

「僕は、そういう人達に仕事を提供するのが仕事だと考えている。
だからウチの強みはみんなが貧しいことなのさ(笑)」

K.「(笑)」

「ウチで働いていた、
あるおっちゃんが村の中では貧農だったんだけど、
ウチで働いて小銭貯めて、そのお金で農地を買いたしていく。
それでウチを辞める時にこういったよ。
『俺はこれから本当に農業やるんだ』って。」

K.「面白い。」

「それ聞いて、嬉しかった(笑)」

K.「それを良しと出来る
おっちゃんの感覚も面白いですね。
おカネが稼げるとなったら、
そっちを選んじゃうのが今の世の中じゃないですか。
それを家族が暮らせるだけの農地が手に入ったから、手放すって面白い。」

「それがこそ、頭で考えるか、身体で考えるかの違いだよね。」

K.「なるほど~。カンボジアから学ぶことがたくさんありますね。」

「ホントだね~(笑)」

K.「日本では私達の生活が大地から離れて行くことを
悲しいとか、まずいなとか感じる人が少しずつ
増えている様な気がします。」

「僕は東京の街を一度全部、畑にしちゃったら良いと思うよ(笑)」

K.「(笑)」

「いいんだよ。別にそう考えても。
『それがダメだ』と考えるのは、とても限定された考えになってしまう。
そこからもう一回創ることだってあるよ。
それくらいの発想を持たないと、これからの時代は生きてい行けないと思う。」

K.「それは先ほどおっしゃられた伝統を守る事と一緒ですよね。
常識に捉われず、いま在るものに捉われずって事ですよね。」

「そういうこと。今からわずか
60年ほどまでに東京は焼け野原になったんだから。」

K.「想像できないですね~(笑)」

「いままでほとんどの日本人って
電気なんて考えたこと無かったと思う。
震災以降、電気がどこから来ていたのかも
ようやく知るようになった。」

K.「そうですね。」

「いま、知るきっかけができたわけだけど、
僕はとても楽観主義者だから可能だと思っているんだけど、
『放射能に強い生活の仕方』っいうのが
これからの大切な学問になると思う。
食事の作り方とか、素材の選び方とか、
そういった新しいノウハウよ。
みんな過去に目が向いているから、
ネガティブに考えているけど。
未来に目を向けてポジティブに考えれば、
今の状況をどうネクストに持っていくかが基本になる。
それが大切になる。」

K.「今だと単純な二元論で、原発廃止か、存続かに陥りがちですもんね。」

「そう、それはとても限定された二元論さ。
僕は多元論、可能性のなかでいろんなものを認めながら、
かつそれらを融合させていく(笑)」

K.「アウフヘーベンしていく過程だと捉えるわけですね。
ようやく対立自体が明らかになりつつある。」

「まだだね。もう少し時間がかかる。
いまはその入口だと思う。これから数年かかるよ。」

K.「その時に、大きな痛みって伴うものだと思われますか?」

「もちろんあるよ。
でも、痛みが無いと人間って考えられないからね。」

K.「それも身体感覚か。」

「そう。電気が無くなって、そこから電気の事を考える。
それと同じよ(笑)」

K.「考えると単純ですね。
だけど、其処から抜け出せないんですよね。」

「脱却できない。
それはある種の共同幻想さ。
そういう幻想の中で、みんなが安定するという幻想を抱いていたわけ。
それが今崩れつつある。」

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Q、この先おやりになりたいことは何ですか?

「いろいろやりたいことあるけど、
いま思っているのは僕が生きている間にどこまで
自分が出来るか?」

K.「それは」

「僕ね12歳の時に電車に乗って家出したの」

K.「はい。」

「けど当時豪雪で電車が途中で止まっちゃって
それまで京都から福知山線で日本海側に走って行く時、
景色がどんどん真っ白になって行くんだけど、
その真っ白のど真ん中で汽車が動かなくなっちゃてね(笑)

それが「香住」っていう駅だった。
それから50年経ってね、
この間僕は香住の人に呼ばれて、
その街を訪れたから、もう一度その香住の駅に50年ぶりに立ったの。」

C.「素敵~」

「僕はね。その時思ったの。
僕は一つの人生を終えたってね。」

K.「感覚的にですね(笑)」

「なので、僕は次の人生を歩むんだろうなっていう気がしている。」

K.「なるほど。」

K.「村は今後住む人を増やしていくんですか?」

「いや、それも一緒さ。大きくすることに意味はないさ。」

K.「今の状態が持続するようにってことですね。」

「僕にとっては適正規模で、みんな大きくすることとか、
広げる事が良いことだって考えるけど、
その価値観が僕には無いから(笑)
そのクオリティをどう上げるかってことよ。」

K.「クオリティを上げるというのは?」

「其れは技術的なことも含めて、
まだまだ確立しなきゃいけないことがたくさんある。
人間の能力は磨けば磨くほどもっと優れたものになっていくと思う。
その可能性の中の、まだ半分しか行ってないと思ってるよ。」

K.「なるほど」

「ウチの布だって、世界のトップレベルにあると思っているけど、
それだってまだ半分なんだよ。その極に行くっていうのはまだまだ。」

K.「極を目指すわけですね。そのアプローチって、職人さんらしいですね。」

「でもね。ウチはウチとして成り立っている。けれど、
それが他の場所で他の人達で成り立つのかどうか?
っていう事を自問自答している。
実際ウチみたいなことをやりたいという人が来るのさ。
そして、始める人もいるわけ。
それに対するアドバイスみたいなものも今考えていて。」

K.「なるほど」

「いままでは、ウチの村のことだけで精一杯だったけど、
いまはウチの村も僕がいなくても回るから、
そういう事を考えられるようになった。
なので、どう普遍化していくか?というのが鍵になってきて」

K.「そうか。」

「僕はいま、
特殊だけど、それが普遍の価値観でもあってもいいなって
思えるようになってきた。」

K.「在る程度突き抜けたらそう思えるようになってきたんですか?(笑)」

「そういうこと。それはクオリティって事と繋がるでしょう。」

K.「そうですね。」

************************************************************

Q、中学生・高校生へメッセージを。

K.「高校生、中学生に何かアドバイスするとしたら、
なんて声をおかけになりますか?」

「半歩でもいいから足を踏み出しなさいってことだね。
考えていないでね。」

K.「それは実際に足を踏み出すってことですね(笑)」

「そうすると、見えてくる世界が変わる。」

K.「現実として自分が位置を変えれば、
見えるものが変わりますもんね。」

「体感できるものが変わる。」

K.「ですね~。」

「僕も実際に自分でそうしてきたから
いまココにいる訳で、でしょう?
迷った時に『いいや、行っちゃえ!』ってね。
別の言い方で言えば、
『リスクを恐れない』ってこと。
少し前の時代まで、リスクを負わないことが良いことだっていう神話があったでしょ。
それは変わってきてるんだよ。
リスクを避けるってのは悲しみを避けるのといっしょさ。
悲しみが無ければ、反対の喜びも無い。」

K.「なるほど。」

「全てが整った上で、やるって言うのは間違いさ。
在る程度見えた段階でやってみる。
それが半歩踏み出すってこと。
その勇気を持つことさ。」

K.「やってみないと解らない。」

「人間っていうのは身体を動かすもの、
その事で進化していくもの。」


K.「いやぁ、面白かったです。
日本でも若い人向けに講演会とか是非してほしいな~。
本日は貴重なお話ありがとうございました。」

以上

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最後まで読んでくださりありがとうございました。

アンコールワットへ行くことがあれば、
IKTTや『伝統の森』にも是非足をのばしてみてください!


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2012-04-25

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾 森本喜久男さん③

Q、苦労されたことって何かありますか?
「僕はね、やりたくないことはやんない(笑)」

「(一同笑)」

「だからね苦労は山ほどしてるって言えるけど、
それを苦労だと思わない。
僕は苦労ってのを仕事だと思っている。
問題があるから仕事があるって思っている。」

K.「なるほど」

Q、逆に嬉しいことって何ですか?

「やっぱりみんなの笑顔が見られること。
みんなが幸せに暮らしていること。
けど、一番嬉しいのはあれだよ、
僕が30年前にミュージアムで見た布、
其れを超えるような布をいま僕が作れていること。
これは嬉しいというか、もうゾクゾク!」

K.「鳥肌立っちゃう感じの?」

「うちの彼女たちが造った布を見て、
僕は自分で鳥肌立っちゃう(笑)」

K.「それは面白いな~。京都でご自身が職人として造られる時よりも
その喜びは大きいんですか?」

「いや、僕はいまでも自分の手で造っているよ。
ろうけつ染めをやってる。
それは僕の根っこにアーティストとしての気持ちがあるから、
年に何枚かは自分の手で造る。」

K.「なるほど。」

「それに、この間
おそらく現代の職人がみても、
どうやったかわかんない技術を
僕は見つけちゃった(笑)」

K.「新しい?」

「いや、これは昔の人がやっていた技法。
100年前まで草木染めは当たりまえのことだったんだよ
それ以降、化学染料が市場に出回って、
その時のテクニックがほとんど消えている。」

K.「なるほど」

「僕は30年やってきて
いろんな発見をしているんだけど、
今回は特Aクラスの発見をしちゃった。」

K.「面白いな~」

「例えば日本で室町時代の布を見て、
その復元の方法が解らないなんてことがあるんだけど、
僕はその手掛かりを見つけちゃった。
わかっちゃった(笑)」

K.「職人さんならではだね~☆」

K.「話は飛ぶんですが、
僕は学生時代に伝統工芸の職人さんのことを調べていて」

「何をやっている人?」

K.「漆塗りの職人さんや、舟箪笥の職人さんですね。
その方々が言うには、後を継ぐ人もいないし、
自分の代で終わりだっていうんですよね。」

「うん」

K.「その場合、ご自身がやめたら
技術なり、知恵なりってのはどうなるんですか?って聞いたら、
『これはもう残らない』っておっしゃるんですね。
例えば『書いて残すようなこともしない』と、
『書いたって意味が無い』とおっしゃるんです。」

「うん。そうそう」

K.「ですよね。職人の技術とか知恵って、まさしく経験的なもので」

「『手の記憶』さ。ウチもまったくそう。
うちはだからマニュアルがない。
マニュアルが無いのがマニュアル。」

K.「でしょうね。」

「僕らは自然を相手にしているでしょう。
自然っていうのは一定してないさ。
みんな、定量で一定のもんだって想定したがるんだけど、
それは違う。常に変化してる。」

K.「そうですね。」

「だからその変化している自然に対して、
対応していかなければいけない。それがマニュアルなんだよ。
だから、100グラム、一時間などでマニュアル化しても
なんの意味もない。」

K.「なるほど」

「それ以上の対応をしていかないと、
良いものは出来ない。そういう風に僕ら思うね。」

K.「特にそれは質を重視したらそうなりますよね。」

「尚の事そうなる。」

K.「日本のそういう技術っていうのは、、、」

「ただね
日本の伝統っていうけど、
同じよ。
伝統って言うのは守っちゃいけない。
僕はね、いま現役で最前線でやっている人達はね
『伝統を守る』って言わないと思う。
自分達は伝統を創っていく。って考えてる。
それをわかんない人達が守るって言う。」

K.「なるほど。」

「これはね、文科省が悪い。
守ろうとしてる。守ることに捉われると、
後ろ向きになっちゃう。
保存なんて意味が無いんだよ。
生きた伝統っていうね。
そこに立たない限り、伝統っていうのは持続しない。
守ろうとか考える時点でね
それは既にマイナスに考えている。」

K.「おっしゃる通りですね。
僕の祖父の話なんですけど、
山に囲まれた田舎で、ずっと田んぼを耕して、
暮らしていた人なんです。
その祖父が無くなって3年くらいたった時に
祖父の家の庭をなんとなく見て周ってたんです、
そしたら其処に根本と枝先が明らかに違う種類なのに
花を咲かしている一本の木を見つけたんです。」

「うん」

K.「それについて、ばあちゃんに『これなんなの?』って聞いたら
要はじいちゃんが生きてるときに趣味で、
種類の違う木同士を『接ぎ木』をして育ててたんだ。 
っていうわけです。」

「うん」

K.「『接ぎ木』って言われても、僕らの世代からすれば
どうやってやるのか、さっぱり見当もつかないわけですよ。
違う木の途中から、違う木が生えているなんてのは。」

「あぁ、はい。」

K.「で、その時に思ったのは
伝統工芸の職人さんに限らず、
日本でずっと手で仕事をしてきた人達。
そういう人達って、ものすごい知恵を」

「持ってた。」

K.「持ってたんですよね。
例えば僕はおじいちゃんがもう死んじゃったから、
もう解らないんですよ。聞くこともできない」

「うん。」

K.「そう言う意味で、
伝統を守ることとはちょっと違って、
そういった知恵や技術が日本からどんどん消えていっているな~
ということへの感覚的な危機感?
そういったものがあるんですよ。」

「わかる。
実はうちのプロジェクトは 
日本語では『伝統の森プロジェクト』って言ってるんだけど、
英語では『wisdoms of forest』つまり『森の知恵』さ。」

K.「おぉ、なるほど~」「素敵」

「それは何百年もの間自然の中で暮らしてきた人々の
知恵を取り戻す活動だよ。
これは日本も中国も同じさ。いま世界中で必要なの。
これからまさに必要なの。」

K.「まさにね。」

「世界が『量から質』に転換するためにはこれが必要なの。
そして、いま、日本でも以前にウチに来たことがある人達がそれを始めてるの。」

K.「あぁ、いるんですか?」

「30代くらいの女性でね。
僕が日本にいった時、会いに来てくれて。
『私も日本で森本さんのところみたいな
お金使わなくても良い生活がしたい』って
言うんだよね。」

K.「おぉ。」

「これは貨幣経済の本質をついてるんだよね。
おカネは紙でしかないというね。」

K.「そうですね。」

「その紙にみんなが振り回されてる。
そうじゃなくて、宝の宝庫としての自然を相手にして生きる
そのことを彼女はうちの村に来て感覚的に理解したんだね。」

K.「面白い」

「実は僕はね
中学生時代に日本の農本主義者の安藤昌益
が好きでね。彼のことに憧れていた時期があった。」

K.「不勉強で知りませんでした。
あんどうしょうえき、、、」

「たぶん今僕が言っていることはね、
丁度19世紀、産業革命の混乱期、あの時の様な世界の転換点
その新しい転換点に差し掛かってるんだなと感じてる。」

K.「なるほど」

「そういった流れのなかでテーマとなる農、自然と人間がどう付き合うか?
そういった事への考えを江戸時代の農本学者はもってた。」

K.「日本人って面白いなと思うのは
江戸時代までは自然との共生っていうのが
うまいことバランス取れてた。」

「うん。取れてたと思う。」

K.「ところが西洋化によって、
自然からある意味で離れて行った。
どちらかと言うと、コントロールしようとするようになりましたよね。」

「商業資本から産業資本の時代に入っていったってことだよね。」

K.「そうです。
ただ、日本人の精神的な根っこには
自然との共生ってどうしても捨てきれないんですよね。」

「そうだね。八百万の神々だからね。
それは自然との付き合い方だね。
だからヨーロッパの絶対神とは違う世界。
人間を優位に置いてではなくて、
自然と人間がシームレスに繋がっている関係。」

K.「その通りだと思います。
その感覚って、多分若い世代もまだ持ってるんですよね。」

「持ってる」
「話また飛ぶけど、日本人が良く『俺は無宗教だ』
っていうけどあれ嘘よ。」

K.「そうですね。」

「みんな知らない、というか自覚してない。
これは政治の問題よ。限定された人々の主張の結果、
日本人本来の姿が説明されていない。」

K.「そうですよね。」

「面白いのは、カンボジアも八百万の神なんだよね。
だから日本人がここに来ても、何か安らいで、リピータになる。
それは根っこの部分で似たものがこの国にあるからよ。」

K.「なるほど。そうなんだ!」

************************************************************

K.「話はまた飛ぶんですけど、『環境経済学』という学問が
西欧でもてはやされ出したのは70年代位からじゃないですか。」

「そうそうそう。」

K.「でも、あれって日本人にとっては、、」

「当たり前のこと。だから
うちのヨーロッパで興味を持っている人達っていうのは、
そういった価値観の変化を起こしているなかで、
うちのやっていることを見て評価している。」

K.「面白い。けれど、森本さんには
ある程度確信があったと思うんですが?
そういう風に世の中が変わっていくだろうという確信が、、」

「そうそうそう。」

K.「それが現実になってきたんですね。」

「だから僕は筋を曲げないさ。
曲げる必要が無いって思ってるから。
途中で討ち死にしたら、まぁしょうがない(笑)」


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④(最終回)につづく


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2012-04-23

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾 森本喜久男さん②

Q、改めて、カンボジアでの活動に至る経緯。

K.「ユネスコのコンサルタントをやってから、
ご自身でカンボジアで活動をしようするにはきっかけがあったんですか?」

「それはね、やっぱり僕は職人だから、調査員じゃないから。
僕から見れば、その時出逢った村で、出逢ったおばちゃん達が創ったものを
仲買人に二束三文で買い叩かれているのを実際に現場で見て、
『それは違うぜ』って思ったんだよね。
やっぱり彼女たちの腕に見合った正当な対価を払って
仕事ってのをさせてあげたいなって思ったのが一つのきっかけだね。」

K.「なるほど、それはやっぱり現場に行ったからですね。」

「それに、僕はカンボジアの素晴らしい布の世界を少し知っていたから、
それを自分たちの手で復興させたいなって思ったね。
これは僕の布に対する思いだよね。僕は布好きだから。」

K.「森本さんが、忘れかけられていたカンボジアの織物文化を
再発見されたわけですね。」

「まぁ、そうかもしれない。」

K.「危なかったですね。少し遅かったら、、、」

「今だったらもう出てこないね。
あの時だから出来た。あの時出逢った人間国宝級のおばあちゃん達も
今は半分以上亡くなっている。

例えば藍染、僕はそれをやってたおっちゃんと出逢ったんだけど、
その人にインタビューして、
どういう道具を使っていたかとか、全部メモってる。

それが無かったら、
カンボジアで藍染をどういう工程で創っていたかなんかも
どこにも記録が残っていなかった。」

K.「なるほど。そういった記録は
昔織物などをやっていた方々に聞きとりをして
残していったんですね。」

「そう。調査は始めはジグソーパズルみたいなもの。」

C.「その当時は通訳をつけて調査をしていたんですか?」

「うん、英語の通訳をつけてた。
けど、在る時に気がついたんだけど
僕が『それは違うよ』って怒ったり、ネガティブなことを
相手に伝えようとすると、
通訳がそれを伝えてないんだよね。
良い話しかしないんだよね。

C.「やっぱり感情が入っちゃいますよね。」

「入っちゃうんだね。だから、
これは僕がクメール語で直接伝えなきゃいけないなと思うようになった。」

K.「そうでしたか。」

「僕はタイ語は読み書き出来たんだけど、
ほら、タイの大学でテキスタイルデザインを教えていたりもしたからね。」

K.「おもしろい!」

「だけどクメール語は喋れるけど、いまも読み書きは出来ないね。」

K.「ちなみにネガティブなことって例えばどういう内容ですか?」

「例えばね『化学染料は使っちゃいけないよ』とかね。
人間って怠惰な生き物だからね。
そっちに流れるのを止めるのが僕の仕事だから。」

K.「『叱る』に近いですね。」

「そう。その叱るときに相手に伝えたい内容が伝わってないと困る。
これは多分ね。通訳介して英語で仕事をしている人は
皆思っていることだと思う。」

*****************************************************************

『伝統の森』にて

Q、現在の活動と、そこに至るまで

K.「今現在、何人の人が働いているんですか?」

「いま実質は260名くらい。」

K.「森本さんが再発見したとはいえ、
若い人達は知識も経験も無い所からのスタートですよね?
その点はどうでしたか。」

「そこはね。人間国宝級のおばあちゃんとかをまず呼んで来てもらって、
そこで指導をしてもらう。
僕は外国人だから技術を教えないで環境を整えていくのが仕事。
いまもそうだよ。」

K.「へぇ~」

「僕は村を創って、森を創ってるけどそれは環境を整える事。
経験、知識、知恵ってのは
カンボジアの人達が持ってるものだと
僕は理解しているから。」

K.「それが繋がる場を創るって感じですね?」

「そうそう。それが発揮できる場を
創るのが僕の仕事。」

K.「布を創る職人の仕事は最初から現地の人達に認められたんですか?」

「当時はまだ内戦をやっていたから、
鉄砲のたまがどこから飛んでくるかもわからなくて、
地雷もたくさん埋まってたし。

だからカンボジアの人達はまだそんな事に目が行く段階じゃなかったね。
今日生きるかどうかもわからないんだから。」

K.「えぇ」

「でも僕は10年、20年経ったときに其れが成り立つってわかったから。
そして、当時それを始められるポジションに自分がいることもわかってた。」

K.「なるほど」

「と同時に、その頃ぼくはたまたまタイにいて、大学でテキスタイルを教えていたんだけど、そこでタイの専門家がカンボジアの布を『これはタイのものだ!』って言い張ってたのよ。

彼らも高度成長を遂げる中で、自分達の文化というか、素性を語りたくなったんだろうね。」

K.「アイデンティティですね。」

「そう。けれど、僕はその時に
この布は間違いなくカンボジアのものだ、ってのを確認した。
だから、カンボジア側にもそのカンボジアのアイデンティティを
公的に主張する場がないといけないと理解していたから。
そこで僕はこのクメール伝統織物研究所っていうのを立ち上げたんだよ。」

K.「なるほど、ココにはそういう場としての機能もあるんですね。」

「いわゆる人間って、衣食住が整ってくれば
氏素性が語りたくなる(笑)」

K.「そうなんですよね。
けど、カンボジアの人にとては直近まで殺し合いやってたわけですから、
誇りもなにも無いんですよね。」

「そうだね。やっと、ここ最近だよ。
カンボジアの人達が僕らの活動に興味をもってくれ出したのは。」

K.「そうなんですか!」

「あと、この前もね、僕ねクメール語で本を書いたの
2000冊くらい印刷して、それを無料で配った。
そしたらね、それの反響がすごくてね。
その本をシアヌーク殿下も読んでくれて、
手書きの感謝状をもらったの(笑)。」

K.「えぇ、本当ですか?スゴイ」

「『手書きなんて普通ないんだよ!』って言われたよ(笑)
本当にうちがやっている事を解った上で、
頂いた感謝状だからね。嬉しかったよ。」

*****************************************************************

Q、森本さんのモチベーションとは

K.「でも、既にある意味で形を創り上げていたタイから移って、
改めてカンボジアでやろうとした時の
森本さんのモチベーションって何だったんですか?
当然、日本に戻って何かをやって行くという選択肢も常にあったんですよね?」

「僕にはそれはなかったの(笑)」

K.「あ、なかったんですか(笑)」

「正直に言っちゃうと、
83年に日本を出てきたでしょう。
本当は82年に出たかったけど、とても工房を片づけられなかった。
弟子も居たしね。」

K.「親方ですもんね(笑)」

「での、その時ね日本では丁度『飽食の文化』が始まっていた。」

K.「その頃からか。」

「当時ね日本は頭と胃袋は日本列島に乗っかっているけど、
手と足は東南アジアに転がってる。
その上で、日本は飽食に甘んじている。
実を言うと、僕はそういう日本に少し嫌気がさしていた。」

K.「あぁ、なるほど。」

「でね、丁度大友克洋ってマンガ家いるでしょう。
彼の『さよならニッポン』っていうマンガがあってね、それで僕も
『さよならニッポン』しちゃおうって(笑)」

「(一同笑)」

「あと、写真家の藤原新也の『全東洋街道』
あれが出たばっかりの頃、それを見ながらさ。」

K.「最近いろんな方のお話を伺って思うんですけど、
あの80年代の初頭って日本人の若い世代が改めて『気づき』を持って
世界に目を向け始めた時代なんだなと感じるんですよね。」

「一般的な感覚で言えば、
60年代後半からJALパックが始まり、
70年代頭からドル円が固定相場から変動相場に移行し始めた
それで日本人が海外に出やすくなっていったんだよね。
ハワイとかグアムとかに行き始めて、
一方で、シベリア鉄道でヨーロッパへ行くとか、
インドフリークとかが出始めたのが70年代。」

K.「なるほど」

「それから10年経って、80年代ってのは、
それが丁度一巡して、次のサークルがもう一回り大きくなった。
だから、僕みたいな人間も『海外に行ってもいいかな?』
ってそう思えるような時代になった。」

K.「ロケットの第二段階なんですね。」

「そうそう。だからバックパッカーじゃなくても
新婚旅行で海外にいこうかなって人も出てきた時代になっていたんだろうね。」

K.「その中でも、カンボジアにいらっしゃって、
ユネスコのコンサルになる段階では
在る程度カンボジアで長い期間腰据えてやるぞ!って気持ちはあったんですか?」

「全然そんなことない。
僕はタイでやっていたから、
ユネスコからコンサルってことで依頼を受けたんだよ。
実際には予算も少なくて、持ち出しもかなりあったんだけどね(笑)
でもある人に、
『森本さんユネスコのコンサルっていうのはステータスがあるんだから、
それをちゃんと利用しないと』って言われてね。」

K.「なるほど」

「実際、個人で活動を始める時も
ユネスコのコンサルをやっていた森本ですっていうと、
ちゃんとステータスとして使えるんだよね。
ユネスコの後光はちゃんと後ろから射してたんだよ(笑)」

K.「使えるものはなんでも使わないとね(笑)」

K.「こちらで活動を続けていく上で、
カンボジアの人達に、アイデンティティを取り戻す、
もしくは新たに築いていくかっていうこと、
または、ダイレクトに雇用を生み出していくという価値も生まれているわけですけど、それはやっぱり、森本さんのなかでは
そうすることにモチベーションを感じてらっしゃるんですか?」

「そうですね。
つーか、逆にね、いままでウチは
織物をやっているNPOという限定された見方しかされなかった。
でも、実際にウチがやっている仕事は違う。僕らは『村を創っている』んだよ。
ウチがやってきた仕事ってのは織物を作り出すその全体なんだよ。」

K.「それって要は、衣食住と学ぶ場所と
いわゆる村って言うのが機能するために
必要な場所を一つずつ創ってきたってことですよね。」

「そう。ウチはそれを実践してる。」

K.「それは森本さんがカンボジアにいらっしゃった時に、
そういう場、そういう人が生きるための場が不足していると感じられたんですかね?」

「仕事が無い。そういう人達がたくさん居た。」

K.「今だと、職業訓練とかに絞った活動をするNPOとかもあるじゃないですか?」

「僕はいつも言うんだけど、国連でもそうだけど、
職業訓練のための訓練をしているケースはいっぱいあるんだよ。
職業訓練を終えた後に食えないケースがたくさんあるのさ。
彼らにとったら職業訓練をしていることに意味があるのさ。
そんな訓練必要ないさ。」

K.「おっしゃる通りですね。」

「彼らは年次報告で、
『これをしてます!』というためにやってる。
だからそんないらない。と僕はそう思ってる。」

K.「つまり、全てが自己完結するような仕組みを創る気が無い…」

「そう、リアリティが無いものには意味が無い。」

K.「良いっすね。僕『リアリティ』って言葉が好きなんですよね(笑)」

「僕はずっとタイでそういう現場を嫌になるほど見てきた。
いろんなNPOとかプロジェクトとかが失敗している姿を山ほど見てきたから。」

K.「なるほど。」

「僕は基本、批評とか批判はしないさ。ていうのは
言葉の意味って言うのはそこでしかないから。」

K.「そうですね。」

「実際に僕がいまやっている『村を創る』は
そういった無意味なものに対する僕の対案さ。
『こういうことが出来るんだよ』っていうね。
それを形で示している。
それが僕の言葉さ。」

K.「説明する必要はないってことですね。」

「それが僕の言うリアリティ。」

K.「それってちょっと昔まで、
日本人が一番得意とするものだったのかなって思うんですよね。」

「うん。もしかしたらね。」

K.「手に仕事を持ってね。面白いな~」



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③へつづく

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2012-04-21

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾 森本喜久男さん①

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾目は
アンコールワットで有名な都市、
カンボジアのシェムリアップでお会いした森本喜久男さんです。

《プロフィール》

Facebookプロフィールより

1948年生まれ
京友禅の親方、タイ難民キャンプでのボランティアを経て、
タイの村で伝統織物の復興に携わる。

その後カンボジアに拠点を映し、
1995年以来、カンボジアの伝統的な織物技術の復興、
それによる伝統の再生、および自然環境と生活圏(村)の構築を手がける
IKTT(クメール伝統織物研究所)『伝統の森』の代表を務める。

詳しくはこちらクメール伝統織物研究所HPをご参照ください。
→http://iktt.esprit-libre.org/

《インタビューの前に》

私達は今回のインタビュー前後で
森本さん達が運営するIKTTのショップと
創り手やその家族たちが生活している村である『伝統の森』を訪れました。

まず、ショップに並んでいる布は
私達のような素人の目にも
質の良さを感じさせるものです。



お値段も、カンボジアの平均的なお土産などとは比べ物にならないほど立派なもの(笑)。
ですが、このシルクを求めて世界中からお客さんがいらっしゃるそうです。

続いて、こちらは村の様子です。


村の中心部にはこのように織物を造る
道具がびっしり揃っています。


機織りの作業を見ていると
一枚の布が出来るまでに
文字通り気の遠くなるような作業が行われるんだな~と実感し、
感動してしまいました。

また村の中で遊ぶ、子どもたちの笑顔も印象的。


そしてこの村のスゴイ所は
織物に関する全ての素材が、村の中だけでそろえられるということです。

蚕はもちろん、
染付に使う様々な植物も育てられています。

まさに自給自足。
そんな村から世界トップレベルのシルクが造られているんです。


こんな村を造った森本さんとは一体どんな方なのか?
是非インタビュー本文をお楽しみください

《森本さんインタビュー》
K→賢太郎、C→千明、それ以外のコメントは森本さん

Q、IKTT(クメール伝統織物研究所)について

K.「IKTTを始めたのはおいくつの時なんですか?」

「僕は30年前にタイで同じようなことを始めていたから、
まぁ、ここ(シェムリアップ)で始めたのは2000年からですね。」

K.「森本さんが、、、」

「51だね。」

K.「なるほど」

「始めてからは倍々ゲームで売り上げも、働く人も増えて一時期は500人を越えていたんだよね。だけど3年ぐらい前から『量より質』にシフトしたの。
人はいま500人から300人ぐらいになったんだけど、、
みんなね、腕が上がっているから、500人当時よりも生産量が上がっているんだよね。」

K.「逆に?」

「そう逆に。やっぱりみんなのスキルが上がってるんだね。
みんなにも『量は作らんでいいから、良いもの創れ』って言ってる。」

K.「なるほど」

「うちは、一枚の布が出来るまでに一年かかるんだよ。」

K.「一年?」

「一年かかる。だからその話をして、
実際に生地ができたのが二年前。」

K.「一年後ですね。」

「面白いのがね、今まで一枚100ドルで売っていたのに、
これまでの倍に近い手間をかけて、見た目にも良くなっているから、
僕は『150ドルで売ってもいいよ』って言ったんだけど、
みんな戸惑いがあったんだよね。」

K.「へぇ~」

「それで実際にそれをここ(IKTTのショップ)に並べてみたの
そしたら二時間後にそれが150ドルで売れちゃった(笑)。」

K.「面白いですね(笑)」

「みんなそれから『やっぱり良いもの創ったら高くても買ってもらえる』
って実感したね。実際、値段は上がっているんだけど、
新しいバージョン、つまりより良いものの方が売れるんだよね。」

K.「へぇ~」

「うちはほら、うちの事をちゃんとわかってて来てくれるお客さんが多いからね。
布が好きな人が世界中からくるから、すると高くても良いものは売れるんだよね。」

K.「それは創り手の方には自身になりますよね。」

「もちろん。」


Q、森本さんご自身について

K.「ご出身は京都でいらっしゃいますね?」

「そうです。」

K.「元々友禅の職人さんの家庭にお生まれなんですか?」

「いや、うちは父親は普通のサラリーマンでね。
僕は10代の頃、油絵描きを目指していて
そして15、6の頃にアリストテレスの芸術論、ヘーゲルの『美学』とかね。
ああいったのを一生懸命読んでる時期があって、
その時代に他にも社会学、哲学、経済学なども読んでたんだね。

K.「なるほど。」

「僕は日本出てもう30年になるけど、
新聞もテレビも一切見ない。だけど大体分かるんだよね(笑)」

K.「歴史を学んでいると、在る程度社会の次の段階が
予想できますもんね。」

「そうそう。次のステージが見えてくる」

K.「そっか、じゃあ哲学的な思考というのは
若いころから鍛えられていたんですね。」

K.「そうだね。僕が昨日も話した
人間経済学、いわゆる数量じゃない、お金じゃない
ヒューマンエコノミックスに転換していくであろうというのは、
そういう僕のいろいろ学んできたことがあるからだろうね。」

K.「且つ、これまで実際に現場で経験されてきたことが
合わさってという感じですよね。もう一つの直感のようなものですね?」

「そうだね。」

K.「いまはこちら(IKTTのショップ)にお住まいなんですか?」

「うん居候してるの(笑)。三、四家族と同居してる。」

K.「みなさん、創り手の方ですよね。」

「僕本当は、ここから30キロ行ったところに村を創って、
そこで子ども入れたら200人近くの人が暮らしてるんだよね。」

K.「呼び名とかじゃなくて、本当に村なんですね?」

「本当に村を創ったの(笑)。
38家族が一緒に暮らして、周辺の村から通ってくる人達もいる。」

K.「面白いな~。」

*****************************************************************


Q、カンボジアでの活動のきっかけ。

K.「話が前後しちゃうんですけど、そもそも、なぜカンボジアで始められることになったんですか?」

「一つはね。タイでやってるときに、
カンボジアのユネスコから声かけられたんだよね。
調査を依頼されて、当時まだ内戦終わってなかったから
94年に僕が来て」

K.「94年!?」

「そう。本当はね93年にユネスコの織物復興プロジェクトってのが始まって
それを手伝ってくれって言う話があったんだ。けど、
(トル、予算が無くて)実現しなかった。

その時に僕が90年に
アメリカのテキスタイルとか、人類学をやっている人達と
タイの調査を一緒にやったことがあって。

その時のメンバーがそのまま
ユネスコのカンボジアのメンバーに93年に来て、
『お前もこいよ』って誘われたんだけど、
予算が無くて実現しなくて

まぁ、そんな関係もあってユネスコのスタッフの顔を知ってた。
たまたま94年ココに来て
織物やってる村を見たいって

当時は街の外にでるのも大変な時期で、
でも、織物やってるといわれる村を訪ねて、

ユネスコのスタッフは事前に何度か調査をやっていたんだけど、
そちらは『ここに自然染料の織物の技術は無い』って断言してた。

ところが僕は
昔織物をやっていた形跡とか、その素材とかを見つけたのね。」

K.「へぇ~」

「言葉は全然通じないけどね、
実際に僕はその前に10年タイでやってきたでしょう、
だから、村の職人が道具をどこにしまうかとかわかるの。

K.「そうか。」

「だから、僕はそこに探しにいって、そしたら見つけちゃった(笑)。」

K.「面白い」

「その話をプノンペンに戻って、ユネスコのオフィスの人に話したら
『やっぱり素人じゃなくて、プロが調査しないと駄目なんだな』って話になって
それで僕に95年から改めて調査の依頼が来た。」

K.「なるほど」

「そこからユネスコのコンサルとして半年間活動してね。」

K.「それがカンボジアに来るきっかけなんですね。」

Q、タイでの活動のきっかけ。

K.「もっと話戻っちゃうんですけど、
そもそもなんでタイで10年も活動することになったんですか?
それまではずっと京都で友禅の職人をされていたんですよね?」

「それはね、バンコクのスラムの天使って
呼ばれていたプラティープさんっていう女性がいてね。

K.「プラティープさん?」

「そう。彼女が1978年(ぐらい)にマグサイサイ賞をもらって
79年に日本の宗教者平和会議が彼女を日本に招待したの。」

K.「なるほど」

「その時に10日間ぐらい日本に滞在して、
一日京都だった。僕の友達がそのスケジュールを管理していて
他の日はびっしりスケジュールが詰まっていたから、
間の一日ぐらい休ませてあげたいと彼は思ったんだね。
僕はその時、京都で友禅の工房をやっていたから
『京都友禅工房の見学』という名目で、
実はうちで休んでもらった(笑)」

K.「不思議な御縁ですね~(笑)」

「それがきっかけで彼女と知り合って、
僕ははじめてバンコクという街があって、スラムがあって
そこにたくさん人が住んでいるっていうのを知った。
それが79年。」

K.「79年。」

「そして80年の3月に彼女を訪ねてバンコクへ。
でその時に、当時カンボジアの人達は難民になって、
難民キャンプをつくっていた。
なので僕がバンコクに行くといったら
友達が『難民の人達に何か届けてくれ』って言って
衣類とかたくさん託された。」

K.「なるほど」

「それでバンコクのNGOの事務所に行って、
物資を届けたのが一つと、あとは十日間ほどスラムにも滞在して、
先生(プラティープさん)の家に泊めてもらって。

当時ね
バックパッカーのはしりの時代だったの
そういう日本人がね、世界中からバンコクに集まって
ボランティアとかしてたんだよね。

面白い人いっぱい居て、
『世界100カ国回ってきたよ』とかね
そういうツワモノみたいな熱い
連中がボランティアでバンコクに集まってた。

僕はそういう人達とその時バンコクで飯くったりしながら
いろんな話聞いてね。『面白い人達がいるな~』と(笑)」

K.「本当にそうですね(笑)」

「で、みんなが沼地にどぶ板並べて住んでいる様なスラムなんだけど、
みんな楽しそうに暮らしてるんだよね。
僕はそれを見てね。リアルスラムのマイナスのイメージがあるでしょ。
でも、その中で、そうやって強かに生きている人がいる。

で面白いのがね、
僕はその中であるじっちゃんと話したことがある。
その人はスラムのコミッティーのメンバーなんだけど

スラムの表までは電気が来ている。
けれどスラムの中は不法滞在者だから電気は来てないんだよ。

でもね。表の電線を自分達で切って
そこからスラムの中に電気を引くんだよ。
引くと、その線を切られる、切られるとまた引く。
それをいつもやってんだって、
笑いながらそう言う話をする人達が居る。

僕はね。

それまで友禅の職人をしていたけど、
やっぱりふっきれたもんがあったんだよね。

自分が丁度友禅を10年やってきて、
親方として弟子もいたんだよ。

丁度30過ぎててね

人生を半分来た。
後半の人生自分はどう生きるのか?
そういう疑問を丁度自分に投げかけていた時期でもあったんだよ。」

K.「三十いくつの時ですか?」

「31。その時、そういう人達と出逢った。

K.「衝撃的ですね。」

「僕がね京都で友禅の職人をやっていて、
まわりに大先輩もいるわけよ。
師匠格の50~60の人で、
伝統工芸士の資格をもらって、
職人20人から30人抱えて
ちっちゃなビル建ててね。

でもね、僕が30の時に
『それはオレの未来じゃないな。』
って思ったの。」

K.「じゃあ、その時に海外に行きたいという想いがあったわけでも無いんですね。」

「無い無い。たまたま(笑)」

K.「なるほど、本当に御縁ですよね。
お話を伺うまでなぜ友禅の職人さんが
カンボジアやタイに行くことになったのか不思議に思っていたんですよ。」

 *****************************************************************

②へつづく

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2012-04-09

あなたには麻薬所持の疑いがかけられています。 エチオピア ボレ空港入国審査

のんびりインドを見て回る予定でしたが、
実はビザが五日後に切れるという、
ご指摘を友人からいただきまして、
悩んだあげく急きょアフリカ、エチオピアへのフライトを決めました。

あわてて出立したわりには、
アディスでのCSホストも事前に見つかっており、ひと安心しておりました。

ドバイ経由の
キングフィッシャー、エチオピア航空も
無事に接続し、朝8時ごろアディスアベバのボレ空港へと到着したのです。

おぉ、エチオピアの空港きれいやな〜。
なんて、イメージよりはるかに近代的な空港の外見に
初めてのアフリカへの不安も和らいでおりました。

タラップを降りて、
バスに乗って空港内に入った瞬間でした、

トランシーバー持った私服のオッサンが

ちょっといいですか?
パスポート拝見しますね?

と、にこやかに近づいてきた。

どうぞどうぞ。

ほかの人は止められないのが気になるけど、
見た目外国人らしいのは僕だけだしね。

おっさんは私のパスポートを
さも意味ありげにじっくりとみつめたあと
突然こういいました。

あなたには麻薬所持の疑いがかけられています。

、、、はっ?

いや〜これだけいろんな国を旅してるからね。
調べさせてもらいますよ。

と言われると、なるほど、たしかにね。
疑いたくなる気持ちも理解できます。

いいですよ。
全面的に協力しますよ。
どうせなにも出てこないんだし。
けど、その前に先にトイレに行かせてもらえませんか?
飛行機内でずっと我慢してたんで。

えぇ、もちろん。
奥の事務所にトイレがあるから、
そこに案内しますよ。

なんだ、結構融通きくな。

ということで、
入国審査などもすっ飛ばして、
空港ないの別室へ移動しました。

おっさんも、
そのあと私を取り囲むようについてきた
若めの係員も、みんな紳士的で、
おもわずアムハラ語をならったりと和気和気藹々。

こりゃ、すぐに終わるな。
と心の中で楽勝モードを感じていると、

おっさんが、

じゃ、トイレね。

ということで、すぐそばの
トイレに案内してくれました。

そこでご丁寧にトイレの便座まで
私を案内してくれた瞬間、、、衝撃の一言。

じゃ、ここで見てるから、う×こして。

ん!?え?みてるから?なんで見てるの?

いや、麻薬とかね
持ってないか調べるからね。

え、その目の前で
マンツーマンでみてるんですか?

そうだよ。
絶対勝手に流しちゃダメだよ。

ということで、
おっさんに見られながら、う×こをするはめに。

、、、。

その後、う×こにも、
カバンの中にも麻薬は発見されず、
約1時間後無事に解放されたのでした。

ちなみに、
のちほどエチオピアで会った人の話だと、
機内食などを異常に食べなかったりすると疑われることがあるそうです。

そういえば、たしかにスッチーの目の前で
ほとんど手をつけなかったな。

みなさん、出されたものはしっかりお食べになって下さい。
でないと、とても恥ずかしい経験をさせられるかも。

けど、朝の四時に食欲なんてあるわけないだろ〜。


以上

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2012-04-07

チベットについては書いておかなければならないと思ったので書いておきます

インドのダラムサラ(マクロードガンジ)で出会った
チベットの人々はとかく温和で、
シャイで親切でした。

感動したのが
笑顔の布施と言って、
何もあげるものがない時でも
せめて相手に微笑みかける。

そんな素敵な習慣をもっている
人々です。

そんな彼らがおかれている厳しい現状が、こと日本には十分に伝わっていない。そう感じております。

にわかには信じ難かったけど、
焼身抗議というある意味で究極の意思表示が絶え間なく続けられている。ということを知りました。

と同時にいまなお、
月に30〜100人とも言われる人々がチベットから遥かヒマラヤを越えて、インドに亡命をしているそうです。

ダラムサラに住んでいるチベット人はほとんど亡命者なんです。

亡命。

誰に話をきいても、
ラサから来たんだよ。
と言われました。

もう一度言っておくけど、
彼らの置かれている状況は
にわかには信じ難いものです。

しかもそれが日本にはあまり伝わってない気がする。

チベットの詳しい情報は、
ルンタプロジェクト中原さんのTwitter @tonbani をフォローすることで得られると思います。

世界は広い。
興味と余力があれば是非!

以上

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届け!ネパールからの手紙!

ネパールからの手紙

まずはネパールの話をしておく。
実は約三ヶ月半前にネパールから日本に30通ほどハガキを送ったけど、まだ一枚も届いてない。

もともとネパールのゆうびん事情は信頼出来ないと聞いてたので、
私はわざわざカトマンズの中央郵便局に出向いて、窓口にお願いしたんやけど、結果、日本にハガキが届いていない。
他の人の話では、早くて6日、
遅くても10日で届いているらしい。

その後インドで出逢った旅人に
「そりゃ、スタンプ押すとこまで確認しないとダメだよ!」

というのも、
悪質な職員の場合、
貼られた切手を剥がして再び販売するらしいのです。

私のハガキに何が起こったのかはわかりませんが、
そういった可能性もある、
ということをシェアしときます。

それにしても
30枚はイタいな〜!

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