(一部コアな)APU関係者から大きな反響のあった
世界APU卒業生インタビューの第二弾です。
今回、御紹介するのはシンガポールでお会いした御二人
ブディさんとシンディーさんです。
<当日の写真>
≪簡単なプロフィール≫
Facebookプロフィール写真より |
『ブディ』
出身 :インドネシア人のお母様と日本人のお父様の間に生まれた、こてこての関西人(奈良)。
学部 :APS
時期 :2001年入学
在学中は特定のサークル活動には深く関わらなかったとのこと。
(ただし、個人的には様々なイベントで、司会など勤めているのをお見かけした覚えがあります。)
現在はシンガポールでNTLという日本の物流会社の現地法人にお勤めです。
Facebookプロフィールより |
『シンディー 』
出身 :シンガポール (中華系)
学部 :APS
時期 :2004年の春セメスターの間、交換留学でAPUへ
APU在学中は主に女子バレーボール部で活動とのことです。
現在はRenesas Electronics Singaporeにお勤めになっています。
(御存じのとおり日本を代表する半導体業界トップカンパニーですね。)
さて、そんなお二人とは
2011年2月28日 シンガポールのタンジョンパガー駅でお会いしました。
この日は月曜日でお二人とも仕事でお疲れのところにも関わらず、時間をとって下さいました。
簡単な挨拶をすませ、チャイナタウンまで徒歩にて移動。
その途中で、私達はお二人の洗練された姿を後ろから見ながら、
「やっぱり、出来る女ってのはオーラがあるね」
「私、こんな恰好で恥ずかしい」
などと話しておりました。
到着したのは素敵な雰囲気のチャイナタウンの一角。
美味しい料理を楽しみながら、インタビューを行いました。
今回のインタビューも想像以上に大きな気づきを与えてくれるものとなりました。
それでは以下、その内容をご紹介します。
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Q. お二人がAPUに来たきっかけは?
ブディ「私はインドネシアと日本のハーフとして生まれ、小学校5年生から高校3年生まで日本で普通に学校に通っていたのね。長い間ずっと、ハーフである自分のアイデンティティについて悩んでいた。」
そんな彼女が大学を選ぶ時、国内にいながら視野を広げるにはどうすればいいかをポイントに考え、その結果、開学したばかりのAPUを選んだそうです。
シンディー「私の場合はとにかく交換留学で日本に行ってみたかったんです。けど、当時はまだ、そういった際の受け皿としてはAPUしか無かったんですよね(笑) 当時は別府がどこかすら知りませんでした。」
「なるほど(笑)」
Q. 学生のころはどこに住んでいましたか?
ブディ「APハウス→若草→石垣」「最初はインドネシア人とシェアをしていたけど、私の感覚はむしろ日本人だから、食事やお祈りなど、習慣の違いに戸惑うことが多く引っ越した。私は辛い食べ物がだめなの!(笑)」「石垣では日系ブラジル人のハーフ、日本人、台湾人と一緒に住んでた」
シンディ「私はAPハウスに住んでました。最初にAPハウスにいったときは、え?私こんなところに住むの!って驚きました☆」
ブディ「私も初めてAPUに来た時は、『やってしまった!』と思ったよ(笑)」
Q. 学生時代のおもな活動は?
ブディ「特定のサークルには入らなかったけど、ピンチヒッターでいろいろ頼まれることが多かった。特に司会!運動会やラスティングライト、マレーシア・インドネシアウィークとかね。日本語と英語両方できるから、使い勝手がよかったんでしょ!別府ダンスフェスタ(ドリームバル)にも出場したわね」
「ゼミは三好先生のゼミに入ってたけど、卒論は書かなかった」
シンディ「4か月間だけだったけど、バレー部での活動と、あとは日本語の勉強をすごく頑張りました」
Q. 別府とのかかわりについて。バイトはしてた?
ブディ「バイトはたくさんやった。大使館の観光イベントや通訳、文化食堂、カフェのバリスタ、英語の家庭教師、AUショップでも働いてたのよ」
シンディー「私は期間が限られていたからしませんでしたね」
Q. 別府は好きですか?特に好きな場所や、友達になった人などいますか?
ブディ「好きか嫌いかについてはノー・コメント。そもそも、希望した大学が偶然別府にあっただけだし、特別な感情を抱かない割り切った関係でいようとも思っていた。別府に来た時、私は中身は普通の日本の女子高生だったけど、外見がインドネシア人だから、じろじろ見られた印象がある。別府は基本的に閉鎖的だと思うけど、卒業までの4年間を通してみると、ワールドカップもあったし、少しトゲがとれた感じはする。」
Ken 「別府の人も開学から4年間ぐらい経つと、異文化や外国人に少し慣れた感じがありましたね」
シンディ「私は別府が好きです。滞在期間が短かったせいかもしれませんね。海もあるし、スパ・ビーチでバレーもできるし」
ブディ「亀川の丘の上にあるコーヒーショップは好き。そこに行くまでの桜並木がとてもきれい。店に入ると店の床に桜の花びらが散ってたりして。私が店に行ったとき、その店がすごく忙しそうだったから、私手伝ったのね。そしたら自分のコーヒー代を払わずにすんじゃった!」
Ken「前回のインタビューでも同じ桜並木の話があったんですよ。おもしろいね。」
Q. 学生時代に一番力を注いだことは?それが今仕事に影響を与えていますか?
ブディ「ハーフとしての自分のありかた、アイデンティティをずっと模索していた。けれど、APUに入って、何事も白黒つけなくちゃいけないんじゃなくて、グレーでOK!と思えるようになった。文化交流もたくさんできたし、良い意味で他人の意見を気にしなくなった。」「英語とインドネシア語の勉強も本当に頑張った。私は国際学生なのに日本語基準で入学した。インドネシア人にどうしてそんなに言葉が下手なのかといわれ悔しかった。負けず嫌いだから、言語でも何でも人に負けたくなかった。」
シンディ「日本語の勉強を本当に頑張りました。APUに来た時はほとんど話せなくて、最初は泣きながら、家に電話したりしながら、レポートを書いていましたよ!」
「バレーの時も、練習後に一人ひとりがコメントするんだけど、何を言ったらいいかわからなかった」
「けど、クマさんが、『英語でかまわないよ』って、誰かがそれを訳してくれたりしながら会話してました。みんなとても優しかったよ」
Ken:クマさんっていうのは、創部以来APU女子バレー部のコーチであり、監督であり、親熊であるお方のことやね、APUの職員でもなく、卒業生でもない。けれど、いまなお現場で奮闘しつづけてくれている。知らない人も多いでしょうが、そういった方々が実はたくさん居て、この10年間APUを支えてくれているんですよね。
Q. APUでの一番の思い出は?
ブディ「なんでも本気でやりたいと思えば、交渉やかけあいで何とかなるということ。スチューデントオフィスともたくさんやりあったし。何事も手順を踏んで、Plan, Do, See。その結果、やればできるし、できないことはない、と思えるようになった。」
シンディ「温泉が大好きになった。初めて温泉に行ったのは、亀川の共同浴場(おそらく浜田温泉)。最初は人前で裸になるのがすごく恥ずかしかったし、湯船に入るまでにすごく時間がかかってしまった。けど、慣れてからは一人でも行けるようになった。レポートのときのストレス解消にもなるし。」
Ken:素晴らしい体験やね。やっぱり別府に来て温泉を楽しめずに帰るのはもったいないもんね。
Q. 今振り返って、APUに入って、別府に住んでよかった?悪かった?
ブディ「APUに入って、Open Mind、図太さ、前向きさが身についた。『違う』ということが『間違い』ではないと気付いた。APUは不可能を可能にする大学だと思う。物事に『間違い』はないし、答えはある意味ですべて正しい。サバイバル精神や起業家精神が育つ大学だと思う。」
シンディ「APUでは日本人も含め、各国にとても良い友達ができた。そしてその友達とは今でも連絡を取り合っている。APハウスではキッチンやリビングが共同だから、強制的に他の学生とのきずなが強くなったし、おかげで国際的にもなれたと思う」
Ken:このお二人の言葉は、ポイントを突いていますよね。
Q. APUや別府に対して、もっとこうなったら良いのに!というところは?
ブディ「新しいことを考えろと言いたい。ドリームバルや一村一品運動、ワールドカップ、いろいろやってきたけど、じゃあ次は何?Sustainable Development (持続可能な発展)じゃないけど、農業や漁業で何ができる?学生と地域とが一緒になって、何ができるか。一村一品なら、別府市と学生との共同作品はできないか。山ほどあるホテルや旅館のマネジメントを実際のケーススタディとして、2年間などの期限を決めて、学生にまかせてみてはどうか」「別府とAPUは互いにWin Winの関係のはず。でも別府の人はいろんなことに文句は言うのに、受け身な態度で自分たちでは何もしないように見える。やってもらってあたりまえ、そんな感じなんかな。問題があるなら、大学と市民と学生と、みなが同じテーブルについて話し合うべき」「そもそも学部が2つじゃ足りない」
シンディ「確かに学生と市民とのやりとりが少ない。たとえば学生が農業を見に行くとか、別府市も学生も互いのことをもっと知ろうとする必要があるのでは。」「電車やバスの最終時間も遅らせてほしい。」
Q. 在校生や入学を迷っている高校生、卒業生にメッセージを送るとしたら?
ブディ「やらずに後悔するよりも、やってみて後から後悔した方が良い。失敗してもいいし、不可能なことなどない。そもそも、社会人になったら失敗はできない。大学は一番間違ってもよい場所。」
シンディ「自分らしく生きることの大切さに早く気付いてほしいです。悔いがないように!」
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《インタビューを振り返って》
はい、今回のインタビュー内容いかがでしたか。
私たち夫婦にとっては学びの多いものでしたね。
まず強い印象を受けたのが
「泣きながら日本語の勉強をした」という言葉。
「!」ときましたね。
国際学生が入学から半年もすると日本語を使いこなすようになるので、
学生時代、私は別府のあちこち、あるいは日本人学生の間で
「国際学生はやっぱり頭がいいね」という声をよく聞いていました。
しかし、実際には多くの国際学生は見えないところで「泣きながら」努力をしてたんだろう。
と、今更ながら気付きました。
違う言語を0から学ぶというのは、簡単ではありません。当然と言えば、当然のこと。
何の努力もなしに、学べるものでは無いのです。
きっと、あなたの周りの国際学生も
陰で泣いて学んだ日本語で、あなたと笑顔で会話してるんですよね。
また、逆にどれだけの日本人の学生が、「泣きながら」英語に取り組んだことでしょう。
バイリンガル教育を高々と掲げるAPUですが、
大学の授業の仕組みとしても、学生個人の努力にしても、
まだまだ課題が多いと言えます。
そして次に印象深いのは
「違うってことは間違いではない」というお言葉。
これを語ってくれたブディの口調は関西弁の明るい口調でした。
けど、それを聞きながら
想像以上の苦労を経験してるんだろうな、って感じました。(本人はそんな風に言わないけどね)
自分が何者か、というアイデンティティに関する問題は根深いものです。
特にそれがマイノリティに属する人にとっては重い問いになるのだと思います。
そしてAPUの素晴らしい点の一つは、多くのマイノリティを内包していることでしょう。
国籍、信条をはじめ、ときに性別や、身体的特徴など多くの人々が、
それぞれマイノリティとして共に学生生活を過ごすのです。
ある意味、マイノリティであることが当たり前の環境の中で、
ブディは「違うということの価値」に気付いていったのだと思います。
私たち自身も会社を辞めたり、世界一周に出たりと
およそ日本社会では一般的で無い選択をしてきた背景にも、
APUで学んできた「違うことは間違いではない」という感覚が多分に影響しているように思います。
一方、そういった環境は大多数(マジョリティ)に属する日本人学生にも違う意味で効果があります。
振り返ると、私自身(Ken)にとって最初はそういった環境は逆に苦しかったです。
日本人学生、そして別府市民というマジョリティとしてAPUで過ごしていると、
「あなたは何者なの?」という問いは、大きなプレッシャーになって圧し掛かりました。
それに答えるために、必死で「自分らしい」何かを模索し続けましたように思います(今もね)。
そして結果として、そういった環境が自分を成長させてくれたのです。
お互いがそれぞれに違って、それが普通な環境、APU。
そこで過ごした時間は、
ブディとシンディーという素敵な女性たちの今を力強く支えているように映ります。
あぁ、なんだかこっちが嬉しくなってしまいました。
お忙しい中にも関わらず、快くインタビューに応じてくれたお二人。
素敵なお二人に出会えたことに、心から感謝しています☆
以上
なお、この企画は多くの一期生を中心とするAPU生皆さんの協力で成り立っています。
ご意見、ご感想、各国卒業生情報などドシドシお寄せくださいね☆
KENTARO&CHIAKI
(インタビュー:2011年2月28日)
こちらも宜しくお願いします☆
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