「祖国」とはなんでしょうか?
私は世界を旅していると、
多くの「祖国」に出逢いました。
それぞれの人に
それぞれの祖国との関わり方がありました。
一方で、
旅に出る前に聞いていた通り、
「多くの日本人が
『祖国』について良く知らない。」
という実感も改めてもつようになりました。
今回はその「祖国」について、
そして
それが何故私たちにとって「大切」なのか?
について書きます。
今から10年ほど前のある日、
私が大学に向かう途中のお寺の境内で
ふと、気がついたことがあります。
それは
「人間の生涯を
『桜の木』に例えると
大事なことがよくわかる」
ってこと。
どういうことか?
私たち
「人間」の生涯を
「桜の木」だとすれば、
まず私たちの「種」は「父」と「母」との「関係」にあります。
そして、
芽生えから次第に太く育っていく「幹」は、
幼児期から青年期までに出逢った
全ての人との「関係」そのものです。
そういった家族や友人、
先輩や師との絆が深く、
信頼関係に満ちているほど、
私たちの「幹」は太く、たくましく育っていきます。
そして
青年期を過ぎると、
それぞれが自らの好奇心や、
自然の成り行きによって「枝」を伸ばすことになります。
その「枝」は、
仕事であったり、趣味であったり、
社会生活の中で出逢う人々との「関係」で
構築されていきます。
それが、
長い年月を経ていくにつれて、
やがて「花」をつけます。
その「花」は
「仕事」や「家庭」や「趣味」を通しての
私たち自身の「創造物」です。
そして、
その創造物がやがて「実」となり、
新たな「種」となり、大地に返っていくのです。
そして、またその「種」が次の世代を担っていく、、、。
ね? こう考えると、しっくりきませんか?
さて、ここでまず大切なこと。
それは
しっかりと「根」を育てる
ということです。
なぜなら、
根がしっかりと
地中に育っていなければ
大きな「幹」も
それに支えられる「枝」も
大きく育つことができないからです。
では「根」とは何でしょうか?
「根」とは
「父」と「母」の「父」と「母」、その「父」と「母」、、、
つまり
私たちの「祖先」と
その「祖先」達の「創造物」、
つまり私達の足元にある
「伝統」や「文化」だと考えています。
ですので、
「根」を張るとは、
すなわち、
私たちの祖先が
築きあげてきた
「歴史」「伝統」「文化」を
学び、体得していくこと
にほかならないと思うのです。
そうすることで、
私たちは、ぶれない自分、
しっかりと大地に「根」を張った自分として、
出逢う人々との「関係」を
築いていくことができるのです。
逆に
それが弱く、未熟な「根」であれば、
大きな木として育つことはできませんし、
綺麗な花を咲かすこともできません。
風が吹いたり、大雨が降れば、
根こそぎ倒れてしまうかもしれないのです。
そういう意味で「根」を張る、
つまり
自分たちの足元にある
「歴史」や「伝統」「文化」
について学ぶことは重要だ
と強く感じるのです。
世界を旅していると、
たくさんの「誇らしい」人々に出逢いました。
バングラデシュでは、
小さな子供たちが国旗をもって走り回り、
祖父母の血で勝ち取った
「国」を誇りにしていました。
また、
ペルーで出逢った山岳ガイドのお兄さんは、
アンデスの峰々の美しさと、
そこに息づく人々の文化を
誇らしげに語ってくれました。
ブラジルでは、
日経移民一世のおじいちゃんが、
四世にわたる自らの大家族とその絆を
とっても誇らしげに語っていました。
そういった経験を通して、
その自らの足元に対する
「誇らしい」という気持ちが、
世界に飛び出した時、
あるいは異文化に触れたとき、
私たちが
「ゆるぎない自分」
として立っているために
必要なのだ
と強く感じました。
さて、
少し別な角度から
「桜の木」の話しを続けましょう。
まず、
木である私たちは、自らの選択で
生まれる場所を選ぶことも、変えることもできません。
それは、
現代の「日本」という
恵まれた国に生まれるのも、
あるいは、
子供が道端に捨てられた
ゴミを食べなければいけないような国に生まれるのも、
私たちには選べないのと同じです。
繰り返しますが、
「種」は
自らの生まれおちる場所を
選ぶことはできません。
だから
生まれおちた土地が、
痩せこけていようが、
乾いていようが、
ただ、そこで懸命に
「日の光」を浴びて、
「大地」から養分を吸収して、
育つための努力をする
しかないのです。
また、
木である私たちは、自らの意志で、
他の木(他人)を変えることもできません。
私たちに一本一本の木にできるのはただ、
「自分自身」を「生きる」ことだけ
です。
どれだけ、
他人を眺めても、
羨ましがっても、
結局、
私たちは、
自分の「根」を伸ばし、
「日の光」を浴びるよう
懸命に努力することしか
できません。
これは同時に、
どれだけ
他人におだてられても、
貶されても、
私たちは、「他人」から、
自分の「根」を伸ばし、
「日の光」を浴びるための
努力について、本質的に
影響されないこと
を意味します。
つまり、
私たちが
自分が生まれおちた「環境」や
「時代」のことに
どれだけ文句をつけても無駄ですし、
また
どれだけ「他人」のことを気にしても、
やはり無駄なのです。
私たちに出来ることは、
ただ
「根」をのばすこと。
つまり、
自らのルーツ(根)を知り、
感じ、愛する努力をすること。
そして、もうひとつ
「日の光」を
浴びるための
努力をすること
です。
では、その「日の光」とはなにか?
と長くなるので、
ここまでで一旦区切り次回に続けようと思います。
私は世界を旅していると、
多くの「祖国」に出逢いました。
それぞれの人に
それぞれの祖国との関わり方がありました。
一方で、
旅に出る前に聞いていた通り、
「多くの日本人が
『祖国』について良く知らない。」
という実感も改めてもつようになりました。
今回はその「祖国」について、
そして
それが何故私たちにとって「大切」なのか?
について書きます。
今から10年ほど前のある日、
私が大学に向かう途中のお寺の境内で
ふと、気がついたことがあります。
それは
「人間の生涯を
『桜の木』に例えると
大事なことがよくわかる」
ってこと。
どういうことか?
私たち
「人間」の生涯を
「桜の木」だとすれば、
まず私たちの「種」は「父」と「母」との「関係」にあります。
そして、
芽生えから次第に太く育っていく「幹」は、
幼児期から青年期までに出逢った
全ての人との「関係」そのものです。
そういった家族や友人、
先輩や師との絆が深く、
信頼関係に満ちているほど、
私たちの「幹」は太く、たくましく育っていきます。
そして
青年期を過ぎると、
それぞれが自らの好奇心や、
自然の成り行きによって「枝」を伸ばすことになります。
その「枝」は、
仕事であったり、趣味であったり、
社会生活の中で出逢う人々との「関係」で
構築されていきます。
それが、
長い年月を経ていくにつれて、
やがて「花」をつけます。
その「花」は
「仕事」や「家庭」や「趣味」を通しての
私たち自身の「創造物」です。
そして、
その創造物がやがて「実」となり、
新たな「種」となり、大地に返っていくのです。
そして、またその「種」が次の世代を担っていく、、、。
ね? こう考えると、しっくりきませんか?
さて、ここでまず大切なこと。
それは
しっかりと「根」を育てる
ということです。
なぜなら、
根がしっかりと
地中に育っていなければ
大きな「幹」も
それに支えられる「枝」も
大きく育つことができないからです。
では「根」とは何でしょうか?
「根」とは
「父」と「母」の「父」と「母」、その「父」と「母」、、、
つまり
私たちの「祖先」と
その「祖先」達の「創造物」、
つまり私達の足元にある
「伝統」や「文化」だと考えています。
ですので、
「根」を張るとは、
すなわち、
私たちの祖先が
築きあげてきた
「歴史」「伝統」「文化」を
学び、体得していくこと
にほかならないと思うのです。
そうすることで、
私たちは、ぶれない自分、
しっかりと大地に「根」を張った自分として、
出逢う人々との「関係」を
築いていくことができるのです。
逆に
それが弱く、未熟な「根」であれば、
大きな木として育つことはできませんし、
綺麗な花を咲かすこともできません。
風が吹いたり、大雨が降れば、
根こそぎ倒れてしまうかもしれないのです。
そういう意味で「根」を張る、
つまり
自分たちの足元にある
「歴史」や「伝統」「文化」
について学ぶことは重要だ
と強く感じるのです。
世界を旅していると、
たくさんの「誇らしい」人々に出逢いました。
バングラデシュでは、
小さな子供たちが国旗をもって走り回り、
祖父母の血で勝ち取った
「国」を誇りにしていました。
また、
ペルーで出逢った山岳ガイドのお兄さんは、
アンデスの峰々の美しさと、
そこに息づく人々の文化を
誇らしげに語ってくれました。
ブラジルでは、
日経移民一世のおじいちゃんが、
四世にわたる自らの大家族とその絆を
とっても誇らしげに語っていました。
そういった経験を通して、
その自らの足元に対する
「誇らしい」という気持ちが、
世界に飛び出した時、
あるいは異文化に触れたとき、
私たちが
「ゆるぎない自分」
として立っているために
必要なのだ
と強く感じました。
さて、
少し別な角度から
「桜の木」の話しを続けましょう。
まず、
木である私たちは、自らの選択で
生まれる場所を選ぶことも、変えることもできません。
それは、
現代の「日本」という
恵まれた国に生まれるのも、
あるいは、
子供が道端に捨てられた
ゴミを食べなければいけないような国に生まれるのも、
私たちには選べないのと同じです。
繰り返しますが、
「種」は
自らの生まれおちる場所を
選ぶことはできません。
だから
生まれおちた土地が、
痩せこけていようが、
乾いていようが、
ただ、そこで懸命に
「日の光」を浴びて、
「大地」から養分を吸収して、
育つための努力をする
しかないのです。
また、
木である私たちは、自らの意志で、
他の木(他人)を変えることもできません。
私たちに一本一本の木にできるのはただ、
「自分自身」を「生きる」ことだけ
です。
どれだけ、
他人を眺めても、
羨ましがっても、
結局、
私たちは、
自分の「根」を伸ばし、
「日の光」を浴びるよう
懸命に努力することしか
できません。
これは同時に、
どれだけ
他人におだてられても、
貶されても、
私たちは、「他人」から、
自分の「根」を伸ばし、
「日の光」を浴びるための
努力について、本質的に
影響されないこと
を意味します。
つまり、
私たちが
自分が生まれおちた「環境」や
「時代」のことに
どれだけ文句をつけても無駄ですし、
また
どれだけ「他人」のことを気にしても、
やはり無駄なのです。
私たちに出来ることは、
ただ
「根」をのばすこと。
つまり、
自らのルーツ(根)を知り、
感じ、愛する努力をすること。
そして、もうひとつ
「日の光」を
浴びるための
努力をすること
です。
では、その「日の光」とはなにか?
と長くなるので、
ここまでで一旦区切り次回に続けようと思います。
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