2013-05-20

世界一周旅を終えて、今思うこと⑭ 「普遍的なもの」について

 
 
当初、世界旅の動機は、

国や宗教や言語を超えて、

人類に共通する
普遍的な価値観は
あるのだろうか?

あるとすれば、それは何か?

について知りたい

という想いでした。



幸いにも
いくつか感じることができました。



まず一つは、リズム。

私たち人類は
国や宗教や言語を超えて、
鼓動のリズムを共有しています。


それは肉体的な生の証です。


あらゆる文化圏で
打楽器のリズムに触れれば
私たちの心と身体は動き出します。

波打ち始めます。


次に挙げられるのは、恐怖です。

私たちは人類は
国や宗教や言語に限らず、
自分を失うことを恐れています。

それは死への恐怖です。

けれど、だからこそ
私達は他者と一体になる喜びも
感じられるのです。




そして何よりも偉大で普遍的だと感じたのは、
母親が子供に与える愛です。



想像してください。

ニューヨークでも

テヘランでも

北京でも

アディスアベバでも

レイキャビクでも、

そして東京でも、

世界中どこを訪れたって、
どんな宗教を信仰していたって、
どんな言葉を話していたって、

母が子に与える愛は変わりません。


それは何よりも普遍的で、
何よりも偉大でした。


そして、美しかった。



もし、将来わたしの子供に

「他人を傷つけてはいけない理由は?」

と問われれば、


もし、将来わたしの子供に

「他人を殺してはいけない理由は?」

と問われれば、


もし、将来わたしの子供に

「戦争をしてはいけない理由は?」

と問われれば、


それは、ただ

「彼にもまた
(あなたと同じように!!)
彼を愛する母親がいるのだから。」


それひとつ、
伝えるだけで十分だと実感しています。


以上

2013-05-18

世界一周旅を終えて、今思うこと⑬ 「祖国」について その2

前回の続き


私たちに出来ることは、ただ
自らのルーツ(根)を知り、感じ、愛すること。
そして「日の光」を浴びるための努力をすることです。

では、その「日の光」とはなにか?

それはきっと
「ありたい姿」です。

私たちが、
「こうありたい」と心の底で願っている姿だと思います。

それに向かおうとする願望、、、。
が本来誰にでもあるのではないでしょうか?


さて、
前置きがだいぶ長くなりましたが、


「祖国」とは何なのか?

私たちを「桜の木」に例えた場合、
どう考えられるかについてすすめます。


「桜の木」は死を迎えると
倒れて、朽ちてやがて大地に帰ります。
その全ては、やがて土となります。


そうして養われた土が
幾重にも重なって、
重なって大地を形成します。
その大地の上に、新しい種が落ち、芽吹きます。


そうやって考えてみると、

私たちの根を下ろす「祖国」という大地は
私たちの「先人達の生」の積み重ね
そのものだと言えるのです。


それが数千年の時を経て
幾重にも重なって、その大地の上に
現代の私たちが育まれているのではないでしょうか?


私たちが
歴史を学び、古来からの文化を知ることで
自らの足元に「根」を張る。


その努力は、私たち一人一人の
「アイデンティティ」を安定させるとともに、

それゆえに「枝」も広く自由に伸ばせるし、

いずれ咲かせる「花」も
壮大に艶やかになるものだと思います。


つまり、先述したとおり、

そうして
「ゆるぎない自分」を確立してこそ、
広い世界でもぶれずに活躍し、
価値を生み出せる人間になります。


そして、

一方でその努力は、
大地そのものを安定させる
ものでもあります。

それぞれの木々が
しっかりと根を張ることで、

大地自体が
「風化」や「浸食」から
守られるのです。


私たちの
根元にある「祖国」という存在も、
同じではないでしょうか?


私たちが、
「祖国」という大地に蓄えられた
「文化」や「伝統」を
学び、吸収していくことで、

その「祖国」そのものの
「風化」や「浸食」を防ぐことができるのだ
と実感しています。


そして逆に、
そういった姿勢を欠いてしまっては、
先人達が守り受け継ぎ、育んできた、「祖国」は
やがて地滑りを起こして、消え去ってしまう
危機にさらされるのではないでしょうか?


また、そうして、

不安定になった大地からは
個々の新しい「芽」も
また育っていくことは難しい

のです。


大切なことは、

「祖国」とは
私たちの足元にあるもので、
(好むと好まざるとにかかわらず)

その上に
私たち一人一人の「生」は
成立しているということ。

そして、

その「祖国」を
しっかりとした土壌として
育み、次世代に受け継ぐためには

その「大地」に
しっかりと「根」を張る努力が
重要だ

ということです。



とはいえ、

私自身はその点について、
「日本」に関しての状況を悲観してはいません。


なぜなら、
いま多くの同世代の友人が、
真の「歴史」を学び、
「伝統」を習得しようと試みているし、


また、
多くの日本人旅人が
世界旅を通じて「日本」とは何か?という
問いに真剣に向き合っているのを
知っているからです。


以上

2013-05-15

世界一周旅を終えて、今思うこと⑫ 「祖国」について

「祖国」とはなんでしょうか?


私は世界を旅していると、
多くの「祖国」に出逢いました。

それぞれの人に
それぞれの祖国との関わり方がありました。

一方で、
旅に出る前に聞いていた通り、

「多くの日本人が
『祖国』について良く知らない。」

という実感も改めてもつようになりました。


今回はその「祖国」について、

そして
それが何故私たちにとって「大切」なのか?

について書きます。


今から10年ほど前のある日、
私が大学に向かう途中のお寺の境内で
ふと、気がついたことがあります。


それは


「人間の生涯を
『桜の木』に例えると
大事なことがよくわかる」

ってこと。


どういうことか?


私たち
「人間」の生涯を
「桜の木」だとすれば、


まず私たちの「種」は「父」と「母」との「関係」にあります。


そして、
芽生えから次第に太く育っていく「幹」は、
幼児期から青年期までに出逢った
全ての人との「関係」そのものです。

そういった家族や友人、
先輩や師との絆が深く、

信頼関係に満ちているほど、
私たちの「幹」は太く、たくましく育っていきます。


そして
青年期を過ぎると、
それぞれが自らの好奇心や、
自然の成り行きによって「枝」を伸ばすことになります。

その「枝」は、
仕事であったり、趣味であったり、
社会生活の中で出逢う人々との「関係」で
構築されていきます。


それが、

長い年月を経ていくにつれて、
やがて「花」をつけます。

その「花」は
「仕事」や「家庭」や「趣味」を通しての
私たち自身の「創造物」です。


そして、
その創造物がやがて「実」となり、
新たな「種」となり、大地に返っていくのです。


そして、またその「種」が次の世代を担っていく、、、。
ね? こう考えると、しっくりきませんか?


さて、ここでまず大切なこと。

それは

しっかりと「根」を育てる

ということです。


なぜなら、
根がしっかりと
地中に育っていなければ
大きな「幹」も
それに支えられる「枝」も
大きく育つことができないからです。



では「根」とは何でしょうか?


「根」とは
「父」と「母」の「父」と「母」、その「父」と「母」、、、

つまり
私たちの「祖先」と
その「祖先」達の「創造物」、

つまり私達の足元にある
「伝統」や「文化」だと考えています。


ですので、
「根」を張るとは、

すなわち、

私たちの祖先が
築きあげてきた
「歴史」「伝統」「文化」を
学び、体得していくこと

にほかならないと思うのです。



そうすることで、
私たちは、ぶれない自分、
しっかりと大地に「根」を張った自分として、
出逢う人々との「関係」を
築いていくことができるのです。


逆に
それが弱く、未熟な「根」であれば、
大きな木として育つことはできませんし、
綺麗な花を咲かすこともできません。


風が吹いたり、大雨が降れば、
根こそぎ倒れてしまうかもしれないのです。

そういう意味で「根」を張る、

つまり
自分たちの足元にある
「歴史」や「伝統」「文化」
について学ぶことは重要だ

と強く感じるのです。



世界を旅していると、
たくさんの「誇らしい」人々に出逢いました。


バングラデシュでは、
小さな子供たちが国旗をもって走り回り、
祖父母の血で勝ち取った
「国」を誇りにしていました。

また、
ペルーで出逢った山岳ガイドのお兄さんは、
アンデスの峰々の美しさと、
そこに息づく人々の文化を

誇らしげに語ってくれました。



ブラジルでは、
日経移民一世のおじいちゃんが、
四世にわたる自らの大家族とその絆を
とっても誇らしげに語っていました。



そういった経験を通して、


その自らの足元に対する
「誇らしい」という気持ちが、

世界に飛び出した時、
あるいは異文化に触れたとき、

私たちが

「ゆるぎない自分」
として立っているために
必要なのだ


と強く感じました。



さて、
少し別な角度から
「桜の木」の話しを続けましょう。

まず、
木である私たちは、自らの選択で
生まれる場所を選ぶことも、変えることもできません。

それは、
現代の「日本」という
恵まれた国に生まれるのも、

あるいは、
子供が道端に捨てられた
ゴミを食べなければいけないような国に生まれるのも、

私たちには選べないのと同じです。


繰り返しますが、

「種」は
自らの生まれおちる場所を
選ぶことはできません。


だから
生まれおちた土地が、
痩せこけていようが、
乾いていようが、

ただ、そこで懸命に
「日の光」を浴びて、
「大地」から養分を吸収して、
育つための努力をする
しかないのです。


また、
木である私たちは、自らの意志で、
他の木(他人)を変えることもできません。

私たちに一本一本の木にできるのはただ、
「自分自身」を「生きる」ことだけ

です。


どれだけ、
他人を眺めても、
羨ましがっても、

結局、
私たちは、
自分の「根」を伸ばし、
「日の光」を浴びるよう
懸命に努力することしか
できません。


これは同時に、

どれだけ
他人におだてられても、
貶されても、

私たちは、「他人」から、
自分の「根」を伸ばし、
「日の光」を浴びるための
努力について、本質的に
影響されないこと
を意味します。



つまり、

私たちが
自分が生まれおちた「環境」や
「時代」のことに
どれだけ文句をつけても無駄ですし、


また

どれだけ「他人」のことを気にしても、
やはり無駄なのです。



私たちに出来ることは、

ただ
「根」をのばすこと。

つまり、
自らのルーツ(根)を知り、
感じ、愛する努力をすること。




そして、もうひとつ

「日の光」を
浴びるための
努力をすること

です。


では、その「日の光」とはなにか?

と長くなるので、
ここまでで一旦区切り次回に続けようと思います。

 

2013-05-13

世界一周旅を終えて、今思うこと⑪ 「恐怖」について

言葉も通じない、見知らぬ土地を旅することは
常に「恐怖」と向き合うことを意味します。

その経験から
私が学びとった「恐怖」についてまとめてみます。


まずはじめに、
「恐怖」とは「感情」の一つです。

そしてそれは、

「怖い!」という感情とともに生じる
とても強烈なエネルギーで

私達の「選択」や「行動」に
ブレーキをかけようとします。

ですが、
車にもブレーキが必要なように、

「恐怖」もまた感じてはいけないものではない

と思います。

むしろ、必要なものだと思います。

それは私達が生きているからこそ、
変り続けているからこそ、生じるものです。

ですので、
私達が生きている限り、
それを完全にゼロにすることは出来ない

んだろうなと感じています。




さて、それを踏まえて
私は

「恐怖」には二種類ある
と感じるようになりました。

一つは「未知」への恐怖です。

そして
もうひとつは「既知」への恐怖です。

どちらも「恐怖」なのでブレーキとして作用しますが、
そのエネルギーの源は異なります。



まず「未知」への恐怖は、
未来に捉われることで生じる感情です。

言い換えればそれは、
「不確かなもの」への怖れです。


自分の知らないもの、
理解していないもの、

それと「関係」することで、
これまで肉体的・精神的・社会的に蓄積してきた「自分」を
「否定」され、失うことへの怖れでもあります。

これに関して、
もっとも偉大な例は「死」への恐怖だと思います。

そして、
旅は常に
「未知への恐怖」と共にあります。

いままで訪れたことのない場所、会ったことのない人、

それらとの出逢いで
何が起こるのか、
全く予想がつきません。

しかし、
だからこそ面白い!!



つまり、
「未知への怖れ」はそれを克服したときには、

その恐怖の量に
比例するだけの「ワクワク」や
「ドキドキ」を伴なっている

ということです。


(余談ですが、
 「観光」と「旅」の違いはここにあると思います。
 
 既に解かっているものを
 「体験」しようと試みることが「観光」ならば、
 解かっていないものを「体験」することが「旅」です。)



一方で、
「既知」への恐怖はやっかいでした。


私はそれを
コロンビアの強盗事件以降
体験することになりました。

例えば、
あの事件以降、
南米のどの町にいっても、

「あの角の向こうで「また」襲われるかもしれない。」

という「恐怖」がおそってブレーキがかかるのです。


それは明らかに「未知への怖れ」とは異なるものでした、

たとえそれを乗り越えたところで
「ドキドキ」や「ワクワク」は生じませんでした。


やがて、
よく自分の内を観察してみると、

「既知」への怖れは、

過去に捉われることで起こっている
のだと気付きました。
  

それは自分の「経験」から生じる「怖れ」です。

私は

自分が過去に抱えた
「痛み」や「失敗」を
二度と味わいたくない

と感じていたのです。



言い換えればそれは、
過去の「自分」を
受け入れることへの「怖れ」でした。




さて、先に述べたように、
私達が生きている限りは
「恐怖」を感じないようにしたり、
ゼロにすることは出来ないと思います。


では、
どうやってそれらをと向き合い、
乗り越えていくのか?


まず、
「未知」への恐怖を乗り越えるために
有効なのは「創造への欲求」だけだと実感しています。
  
それは「作品」であれ「体験」であれ「関係」であれ、
私達が自らの「生」で「創造」したいと思うなにか、
に向かう純粋なエネルギーです。


「創造への欲求」があってはじめて

「不確かな未来」に
向き合う意志と
それを乗り越えるエネルギーが
もたらされます。


ちなみに私にとって、

それは
「日本の素晴らしさを実感したい!」
「世界中に友達を創れることを証明したい!」
「世界の温泉についての本を書きたい!」

などの想いだったのです。

きっと、
そういった想い=「創造への欲求」が無ければ、
私はコロンビアから帰国していたに違いありません。


そして、これに関して

大切なことは

「創造」は常に
「今」この瞬間に起こるもの

だということ。

何かを「創る」というのは
常に「今」の「選択」と「行動」の積み重ね
の先にしかありません。

なので、

「創造への欲求」は常に、
私達が「いま」「ここ」に居て
はじめて実現できる

のです。

  
  
  
さて、一方
「既知」への恐怖を乗り越えるには
何が必要だと思いますか?


その問いに対する
私の答えは、「感謝」の心です。

なぜなら、

「感謝」とは
過去の「自分」を受け入れることで
始めてもたらされるもの

だと思うからです。


以前にも書いたように
私にとって

「自分」とは過去の「『関係』の総和」です。

だから、

「自分」を受け入れるということは、

過去の『関係』そのもの
あるいはそこから与えられた
全ての経験を受け入れること

にほかならないのです。
 


平たくいえば、
自分の人生を「全肯定」すること。
 
  

「人生いろいろあったけど、
 いま幸せです!ありがとう!」

って思えるかどうかってことです。

だから「感謝」は「幸せ」を感じる力でもあります。


そして、

大切なことは

「感謝」は常に私達自身を
「今」「ここ」に立たせてくれる

ということです。
 


なぜなら、

「感謝」する瞬間

私達は
全ての過去の総体である、
「『いま』『この瞬間』の『自分』という存在」

を感じるているからです。


そして

もっとも大切なことは、

私達は

「感謝」することで
「既知の恐怖」を乗り越え

「自分」を
「今」「ここ」に立たせることができる。

また、
そうすることで初めて

「創造」を行う準備が整い、
「未知の恐怖」に
向き合うことができる

ということです。


いま、振り返ってみると、
コロンビアで強盗に遭わなければ
私がこういった学びを得ることもなかったと思います。

あの経験も含めて、
旅で出逢ったみなさんとの御縁のおかげで
今の「自分」があるのだと感謝しています。


以上




 

2013-05-11

世界一周旅を終えて、今思うこと⑩ 「豊かさ」について

世界を旅していて
考えさせられたことの一つに

「豊かさ」とは何か?

という問いがありました。

みなさんは「豊かさ」って
何だと思いますか?


もちろん最低限
身につける衣服があって、ご飯が食べられて、
住む場所があるに越したことはないと思います。

しかし、そこから先の細かなことは
国や地域、文化によって異なることを
実感してきました。

同時に
何が「豊かでない」のかも人によって異なります。

そして、
結論から言えば、私は今

「豊かさ」とはそれぞれの
「心のあり方」そのものである

と感じています。



私は、今回の旅で
バングラデシュをはじめミャンマー、
ネパール、エチオピア、ウガンダなどの
国連的には「世界最貧国」と呼ばれる国々
をいくつも訪れました。


そして、
そこでたくさんの「豊かな」人々に
出逢ったのです。


たしかに、
そういった国々では、
道端で赤ん坊を抱えながら物乞いをしている母親や
やせ細った子供達が食べるためにゴミを拾い集めていたりします。

家すら無い人も大勢います。

たとえそこまで極限の状態ではなくても、
一般の多くの家庭に冷蔵庫も洗濯機も時には
テレビさえないこともしばしばです。

ですから、
経済的・物質的には
私たちと比べると

確かに「貧しい」と言えるでしょう。


しかし、
それでもなお、
私はそういった国々で
たくさんの「豊かな」人々に触れてきました。


例えば、
バングラデッシュの結婚式。
人々は私にお腹いっぱいになるまで
食事をふるまってくれ、

「美味しいだろ!?だったらもっと食べなさい(笑)!」

と言ってすすめてくれました。


また、
ミャンマーで仲良くなった姉妹は

ある時
「このペットボトルを通して太陽を見ると仏さまが見えるよ」

と言って、
キャッキャッとはしゃいぎながら、
私に見せてくれました。

そして、
ウガンダで泊めて頂いたご家族には、
自分たちが普段、豆しか食べていないにも関わらず、
私に飼っていた鶏をわざわざ絞めてから、
夕食に出してくれました。


何が言いたいかというと、
お金がないから、
あるいは物がないからと言って、
それと
彼らの心が「貧しい」かどうかとは
必ずしも直結していない

ということです。


お金がなくても、
マクドナルドに行けなくても、
テレビがなくても、


それでも彼らは

家族と過ごす時間を
大切にしていたし、

困っている人を助ける
優しさも持っていました。


私の眼には、
彼らのそんな「心の豊かさ」が強く焼き付いています。





さて、

とはいえ、
実際にたくさんの人々が飢餓状態で、
必要な医療も受けられず、明日の命もしれない状態にいる。


それは事実です。


その現状に対して、
経済的・物質的な「富」に恵まれている私たち
先進諸国の人々がなんらかの形で取り組むことは
必要不可欠だと思います。

しかし、その際に気をつけなければ
いけないことがあると感じています。

それは
「援助」の実態について知る
ということです。


私は、
今回の旅の中で、
多くの先進国のNGOや政府系組織、
そして社会起業家が「貧困国」で
活動している現場を観察してきました。


そこで、気づかされたのですが、

「現場」に深く入り込んでいる人ほど、
「援助」という言葉を使わない 

のです。


何故か?


それは、
「援助」という言葉は

そもそも自分が
「援助を施す相手よりも『幸せ』である」

という前提を
持っていないと使えない概念

だからです。

私は
そのこと自体については
良いとも悪いとも思いません。


しかし、
その考え方はときに
「価値観の強要」を伴う可能性があるのです。


以下は、
ベトナムで聞いた話。
ベトナムの孤児院に出資していた
フランスのNPOのスタッフがあるとき、
視察に来て驚いたそうです。

なぜなら、
孤児院には子供の人数分だけの
ベットが用意されていなかったから。

ほとんどの子供は床で寝ていたのです。
院長は「必要無いから」と説明したが、
フランス人にとっては
「ベットで眠る」は刑務所の中でも守られる基本的人権の
ようなもので、それが実施されていないことを知ると、
怒りだしたそうです。

そして
「資金を贈るから、すぐにベッドを人数分用意しろ!」
と院長に「命令」しました。

後日ベッドが届きました。

全ての子供たちが眠りについた其の夜、
院長が部屋に様子を見に行くと、
ほとんどの子供が床で眠っていたそうです。

なぜならベトナムの夏の気候が暑すぎて
床で寝た方が涼しかったから。

という話。


これは笑い話ですみますが、
実際はあらゆる「援助」の現場で
これよりも深刻な「価値観の強要」が
行われていたとしたら、
笑えないのは想像できるでしょう?

とにかく問題は、

自分たちは
「豊か」で「正しい」と思い込むこみ、
相手との「違い」を
「理解」しようとしない態度

だと感じています。


だから、逆に
現地で長い間活動を続けている社会起業家など、

助けを必要としている人々のそばに
いつも寄り添っている皆さんは
「援助」という言葉をめったに使わない

のです。


なぜなら、
彼らにとって、
助けを必要としている人々は
友人であり、家族であるから。


私たちは、
親しい友人や兄弟を助ける時に
「援助」なんて言葉は使わないでしょう?



もちろん、
「援助」そのものを非難するつもりはありません。

この世界には
あまりに大勢の助けを必要としている人が居て、
その人たちを「援助」する人も大勢必要だと
実感しているからです。


大切なことは
私たちが「援助」を行うとき、

多少なりとも

「自分の方が相手よりも『豊か』だ」

と考えているんだなぁってことを
自覚すること。

と同時に、

私たちが「援助」を行う
「貧しい」国の人々が持つ、
素晴らしい文化や価値観は何なのか?

彼らから
「学ぶべきこと」は何か?

をしっかりと自らに問うていくことだと

感じています。




繰り返しになりますが、


私は「世界最貧国」で
多くの心「豊かな」人々に出逢いました。


家族を大切にする人々、

困っている人手助けする人々、


そう、確かに彼らは「豊か」でした、
そしてその笑顔は「幸せ」そうでもありました。

少なくとも、

平日のJR中央線の満員電車に乗っている人々よりは

何倍も。

それが、ちょっと悔しかったり、、、



そして、
そのことから、やはり

私は今

「豊かさ」とは

「持っているもの
=【have what】の比較」
から見いだすものではなく、

「心のあり方=【be what】」
そのものなのだ


と実感しているのです。



以上