2012-08-03

「『事実』はいつだって勝者が造るもの。」日本考@イラン

みなさんにとって、
「イラン」とはどういう国ですか?

また「イラン人」といわれて
どんなイメージをもちますか?

私がイランを訪れると決めた時、
私の家族はかなり心配をしている
ようでした。

「イランに行くなら気をつけて。」

普段は、そんなこと口に出さないのに、この時ばかりはそういうメッセージを受けたのです。

まぁ、
それもそのはず、
日本の報道だけ見ていれば、

イランといえば、
テロリストの支援国家で、
核兵器を持とうとしている国で、
なんとなく怪しい国

ですからね。

心配されるのも当然です。
けれど、そのイメージは意図的に作られているものなのです。

少なくとも、
政治的な意思表示と、
国民一人一人の人格には何の関係もありません。

それは、
「あの戦争」という歴史を
背負っている私たち日本国民が
一番良く感じていることでは
無いですか?

けれど「事実」はいつだって、
勝者が造るものなのです。

「歴史」はいつだって、
勝者が残すものなのです。

この前提を忘れてはならないと
思います。

イラン滞在中多くの人々に

「自国の核開発についてどう思うか?」

という質問をぶつけてきました。
当然、賛否両論様々な意見がありましたが、ひとつ印象的だったのがある大学生のこの意見です。

「私たちが核ミサイルで他国を攻撃すると思いますか?かつてのアメリカのように?私たちが武力を保有しようとしているのは護るためですよ。それは自然なことではないですか?自分たちの文化や歴史の独立は力が無ければ侵されてしまうのです。あなた達の国は、
それを経験してきたんじゃないのですか?」


イランの人々と話をしていると、
度々驚くほど日本の近代史
に詳しい人にお会いします。

多分、
彼らはそこらの日本の大学生よりそのことに詳しい。

なぜか?

なぜなら、
イランという国がおかれている状況が、ある部分で戦前の日本に似ているからなのです。

イランという国の現在の政治体制を肯定するわけでも、核開発やテロ行為を肯定するわけではありません。


ただ、
想像してみて欲しいのです。

古くから大事にしてきた、
固有の風土に根ざした生活に、
西欧文明が否応無く浸透していく。

その中で、
自分たちの根底にある言葉にはならない、だけど大事な何かが崩れていく感覚。

それと向き合いながら、
それを守ろうとするために、
議論が、行動が次第に熱を帯びていく。

一方で、
自分達が何をどういう気持ちで
行動しようとも、

「絶対悪」として描かれ
世界中に伝えられる。

大好きな自分の風土が、
文化が、人々が、

「正されるべき、間違ったもの」

として描かれていくことへの
苛立ち。

いま、
イランという国の人々が、
そんな状況におかれているとしたら?

それは
私たちの先達が置かれていた状況と似ているのではないでしょうか?

「大切な何かを護りたい」

ただ、
その純粋な気持ちが、
戦争という悲劇の中で、
「特攻」という究極の形として
現れた、かつての日本。

けれど、
特攻隊に参加された方の中に、
一人でも「悪人」が居たでしょうか?

むしろ、
いまを生きる私たちに

「何かを護るため」

自分の生命を犠牲にする
覚悟が、勇気があるでしょうか?



そういった歴史を背負っている
私たちだからこそ、

世界のあらゆる風土、
文化に生きる人々のことを、
力に屈せず、先入観に囚われず、

正しい目で見つめ、
正しい心で感じてあげられるんじゃないですか?

それが、
生命をかけて、
私たちの生きる「今」を与えてくれた先達への恩返しではない
ですか?

それが、
本当の意味で、
世界の平和に貢献するってこと
ではないですか?

以上


次回は「極上五つ星!世界屈指の放射能泉、ラムサール温泉」世界八十八湯温泉巡り@イランです。

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