2013-04-29

世界一周旅を終えて、今思うこと③ 「言葉」について

「言葉」とは何か?

旅に出る前は意識すらしなかった。

けど、いま旅を振り返ると
その問いへの答えは、私にとってもっとも大きな学びであったように感じています。

今日はそれについてご紹介。


旅の中で「言葉」について強く意識をしたのは
カンボジアでの森本さんへのインタビューがきっかけだったように思います。

インタビュー内容は『いま、世界を変えている日本人』 第三弾 森本喜久男さん①
http://senjin88.blogspot.jp/2012/04/blog-post_21.html 


森本さんから、
「考えること」と、「感じること」の本質的な違いを教えていただくことができました。

そこで、「考えること」は区別すること
一方「感じること」は在るものをそのまま受け入れることだと知りました。

そして「考えること」は常に「言葉」をブロックにして構築されていることに気づきました。
「言葉」無しでは考えられない。なぜなら「言葉」無しでは区別ができないのです。


「言葉」をブロックにして、始めて成り立つもの
たとえばの上には「論理的思考」や「規範」「組織」「都市」「法律」「政治」「国家」というものが乗っています。

「言葉」が無ければ、
こういったものは成り立ちえません。
こういったものを左脳属と捉えてみます。

一方の右脳側には
感性/感覚/肉体/農村などが属しています。

ちなみにアフリカやなんかで実感させられたことの一つが、
コミュニケーションの手段は「言葉」だけではない、ということです。

「英語」も「日本語」も通じない、現地の人々と私はしばしば
身振り手振りやリズム、表情だけで意志疎通を図っていました。
つまり「言葉(左脳)」ではなく、「肉体(右脳)」をフル活用していたのです。

それでほとんど問題はなかったのが不思議でしょう?
でも、実際無かったんです。


それに、彼らの間では今でも
積極的にリズムやダンスなどを用いたコミュニケーションが
行われていたことも印象深い出来ごとです。


さて、上記に挙げたことから、考えを進めてみると
私達が生きる現代社会は圧倒的に「言葉」の世界なのだということに気づけます。

誰かの頭の中で「言葉」のブロックを組み立てて創られたもの(設計)、
それが建造物であれ、都市そのものであれ、制度であれ、法であれ、
その緻密で複雑な塊の膨大な集積の上に現代文明は成り立っている
のだと、いつしか、私は「感じる」ようになりました。

まぁ、そのこと自体は善悪の「区別」をされるものではないと思います。
ただし、私達が気をつけておかねばならない弱点が一つにあるのです。

それはたとえ同じ記号、同じ発音の「言葉」を使っていても、

その「言葉」の「意味」は人によって異なるということです。


ちょっと意味がわからないですね。
例をあげてみましょう。

例えば、
「日本」という言葉について考えてみましょう。

まず、多くの人は「日本」という言葉を目にして、
日本の地理的な位置など、その言葉に関連する客観的な事実(定義)について思い浮かべることができます。
そういった部分では、多く人の間で誤解が生じることは少ないでしょう。

しかし「日本」という言葉を目にして、
ある人は「美しい国」だと思っていたり、
ある人は「汚い国」だと考えていたりします。

またある人は「誇るべき祖国」だと思っていたり、
ある人は「憎むべき敵国」だと思っていたりもします。

人によって、その「言葉」が含んでいるイメージや、その「言葉」への感情は異なるのです。


つまり、
「言葉」は定義(区別するために使う)としては有効ですが、意味(使い手・受け手のイメージや感情)を伝える手段としては非常に脆弱な道具なのです。


私達は
そのことに対してあまりに無頓着になりすぎてはいないでしょうか?
少なくとも私自身は、そうだったと感じています。

良く見渡してみると
多くの社会・政治的問題が「言葉」自体によって引き起こされているケースが目につきませんか?


高度に文明化(言語化)された現代社会に生きる
私達は、ともすれば

ロジカルであること!

はっきりと区別できること!

でなければ軽視してしまいがちではないでしょうか?
と同時に、そうでありさえすれば、身体や心の異変に気づいていても
それを疑いもせず、かえって有難がったまま、従ってはいないでしょうか?

例えば原発という創造物はそれを顕著に表しているように思います。

原発の存在自体に善悪は無いと思います。
しかし、原子力発電所というおそらく最高にロジカルで、左脳的、言語的な創造物が、
大して疑われもせずに設置されつづけたのは、まさしく「言葉」の世界ならではの出来事だと言えないでしょうか?

みな心の底では「なんか変だな」とずっと「感じて」いたにも関わらず!

そして、その結果として、いま、多くの人々の感性や感覚、そして肉体そのもの!が

侵されつつあるとしたら、そのことに何か大きな「メッセージ」を感じずにはいられません。

 

大切な事は、
「言葉」を正しく使うためにこそ、
私達が「言葉」以外の全て、「感じること」を大事にしなければならない
ということです。


と、これ以上は長くなるので、一旦ここで終わります。
次は、この延長にある気づき、、、「芸術」についてをご紹介しようと思っています。


以上




















 

2013-04-25

世界一周旅を終えて、今思うこと① 「人間」について

ブログを書くのもずいぶんと御休みしておりました。

 コロンビアでの例の事件以来、
パソコンも携帯も持たずにきてしったので、
物理的にブログを書いてUPすることが難しかったためです。

とはいえ、旅の終盤、南米大陸での四カ月を
身軽に動きまわれたことは本当に良かったと感じています。

なぜならネットに縛られなくて済む分、
身体と直感だけを頼りに、純粋な「旅」らしい経験を積むことができたからです。


 
 さて、なにわともあれ、無事日本に帰国できたことを御報告するとともに、
自分自身の為にも、今回の旅を総括して、その学びをこれからまとめていこうと思います。


最初のテーマは「人間」


旅の途中(たしかエジプトあたり、、)ふとしたことから気づいたのですが、
「人間」って言葉は良く出来ているんです。

私にとって、

この言葉には「『自分』とは何者か?」という問いへの答えが隠されていました。


どういうことか?

この「人間」という言葉はヒトという種の一個体を表しています。
一人のことを表すのに「人の間」と書き表すのです。

言い得て妙、、ですね。

考えてみると、
「私」は私一人ではその存在を認識し得ません。

「私」は常に、「私とは違う誰か」との相対的な関係の中に認識しうるものではないでしょうか?

「私」は「私だけ」では成り立ちえず、
「私以外の全ての存在」が会って始めて「私」足り得るのではないでしょうか。


言い換えれば、

「私」が存在するためには常に「他者」との「関係」が必要だってこと。

その「関係」が無ければ「私」は自我を育み、独立した存在として成立しえないのです。


そうであるならば、、

 

「私」=「『私』と『他者』との『関係』の総和」だと言えます。


そして「『私』と『他者』との『関係』」は、言い換えれば「人と人の間」のこと。 
つまり、「人間」なのです!

ね、良く出来てると思いませんか?


ですので、

「『自分』とは何か?」という問に対しての答えは、

『自分』とは、「『自分』が出逢ってきた『他者』との『関係』の総和」


だと、この世界旅を通じて気づくことができたのでした。

そういう哲学を腹に据えることができた私自身は、
これから先、以前よりもさらに自信をもって「誰かの為に」という言葉を使えるようになれそうです。

なぜなら「誰かの為に」は、ダイレクトに「自分の為に」と同一なのですから。



以上