想像して頂きたい。
自分自身の手が奇妙に曲がり、延ばすことができず、
片方の足だけ満足に成長せず、
顔の形も大きく変形して目が飛び出る。
私たちがそんな身体に生まれていたとしたら、
どんな毎日を送っているだろうか?
その夜ハノイで出逢ったそんな身体つきの青年は、
たくましくも路上でポストカードを私に売ってきた。
身体的なハンデを背負った多くの人が、
ここベトナムでは物乞いという形で、お金を集めようとしている。
それにも関わらず、彼は堂々と価値を提供し、
その対価としてお金を得ようとしていた。
もし、自分自身が彼の立場だったとして同じことができるだろうか?
言葉には出来ない、顔の形に生まれた自分は社会の目や偏見に打ち勝ち、
且つ誇りを持って「仕事」をすることができるだろうか?
堂々とした青年の姿に、一瞬たじろぎ、素通りしたが
再び戻って、彼の持っているポストカードの束を一つ一つみせてもらった。
そして「値段はいくら?」と聞いてみたら、「50万ドンやで!」と
きちんと広がらない手のひらで5を造りながら言ってきた。
相場の10倍の値段をふっかけてきたのである。
結局、ベトナムで普段行うように値段交渉をし、
少し高めだけれど10万ドンでポストカード一セットを購入した。
その間のやり取りも堂々たるもので、へつらう様子も微塵もない。
お金を渡して、「商売上手やな」と日本語で言ったら、二カッと笑っていた。
その青年の姿から、自分がどのような状態、状況であれ、
誇りを持つことの大切さを教わった気がする。
と同時に、どんな境遇であれ、世の中に対して何かの価値を生み出そうとすること、
すなわち仕事をすることが出来るのだと改めて実感した。
一方で、与えられた仕事にも不満を抱き、生み出す価値のことではなく、
自分の手に入る給料の事しか考えないで仕事をする。
それが如何に、傲慢で、みじめなことかも改めて強く実感した
五体が満足で、まして仕事も与えられているのならばそれ以上の幸せは無い。
あとはただ「どうやったら人に喜んでもらえるか?」
「どうやったら誰かの役に立てるか?」を真剣に考えぬいて取り組むべきなのだ。
一つの仕事が成ったその瞬間青年は、
周囲でばか騒ぎする観光客よりも良い笑顔で笑っていた。
以上
え?なんか勘違いしてませんか?
返信削除誇りを持ってたら50万ドンなんていわないでしょ?
shiro
なるほど。ちなみにどうしてそう思われるんでしょうか?shiroさんのお考えが詳しく知りたいです☆ご意見宜しくお願いします。
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