2012-09-08
「敗戦国としてのドイツと日本の大きな違い。」日本考②ドイツ
ドイツに来てみると個人的に日本とドイツは何かと似ているなぁ、と感じることが多々あります。
哲学的な思考とか、感性みたいな部分で共通点が多いんじゃないでしょうか?
そして近代の歴史でも、互いに第二次世界大戦の同盟国、そして敗戦国として、戦後の復興の歴史を持っていることも、大きな共通点の一つです。
ですが、今回のドイツの滞在中に戦後復興、とりわけ戦争の捉え方たについて日本とドイツの間に大きな違いがあることに気づきましたのでシェアさせてください。
その違いとは次のようなものです。
ドイツの人々が、対外的には(若い世代でさえ少なからず)罪の意識を背負っているように見える一方で、実際にはある種の開き直りもみられます。
それはドイツの若い世代と話をしているときに感じたのですが、自国の歴史でありながら、彼らが自分たちとは直接リンクしないようなものの言い方をしているように感じ他からです。
なぜか?
彼らは戦時中の自国について語るとき、ほとんどの場合
「ナチスドイツが、、、」
という主語を用います。
「ドイツが、、、」ではありません。
ドイツ滞在中はこのことになんの疑問ももたなかったのですが、隣国ポーランド、オーストリアなどその他の国を訪れてみると妙な違和感を感じるようになりました。
ドイツ以外の国では資料館などでも、戦時中のドイツのことしっかりと「Germany」と表現していて、いま現在のドイツとの連続性を感じさせます。
このことから、ドイツ国内では意図的に「ナチス」という言葉を用いることで、現在のドイツとは全く別物として捉えようとしている
のだということに気づきました。
これってかなり効果的なレトリックですよね?
そして、それは実際に上手く作用しているように感じられます。
(少なくとも若い世代に対して)
一方で日本では、そのようなレトリックは用いられてはいませんよね?
私たち日本人にとっては、一般的に戦時中の日本も、いまの日本も連綿としたつながりのある存在です。
統治者から象徴として変わったとはいえ、天皇家もいまなおしっかりと公的な存在として存在しているわけだし、明確に戦前と戦後の日本を区別するようなことは行われていないように思います。
強いていえば、極東軍事裁判で「戦犯」として裁かれた人々の存在が挙げられますが、だとしても、その人たちに全ての責任を負わせて、私たちの歴史から切り離すようなことはしてこなかったように思います。
だからこそ、いまなお開き直り難いのだとも言えるでしょう。
いっそ、ドイツのように全部ヒトラーのせいにするかのように、誰かのせいにしてしまえれば、どんなにか楽なことでしょうか。
しかし、私自身は、日本人がそういった行為を潔しとしないところに日本ならではの美意識がいまなお息づいていることを感じずにはいられません。
「恥」を自らのものとして捉えることはとても困難です。
あえて、その道を選び取ってしまう私たちにはやはり西洋哲学的な割り切りは難しいのだろうなと思います。
けれど、だからこそ美しい。
いま、そんなことを感じています。
みなさんはどう思われますか?
以上
次は「10年ぶりのコペンハーゲンで感じたこと」@デンマーク
頑張れよ!と思ったら↓をポチっと押してみて下さい。
にほんブログ村
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿