2013-05-09

世界一周旅を終えて、今思うこと⑧ 「生と死」について

世界を旅する中で、
明日の命すら不確かな人の姿を
目の当たりにすることがあります。

そういった経験をすると、どうしても



私達の「生」きている意味とは何か?
という問いがもたげてきます。
 
と同時に当然の如く、では

「死」とは何か?

という問いについても考えることになります。

 
そこで、今回は旅を通じて

「生と死」について

考えたことと感じたことを
まとめてみます。
 
 


まず結論から言えば、私は
 
「死」とは「変化しない」こと
 
と思うようになりました。

 
「死」んでしまった「生命」は
それ以上変化をすることはありません。
 
よくある病院の脈拍計をイメージすると
分かりやすいと思いますが、
「生」の状態をグラフに表せば上下に波打ちながら
時間軸に沿って進む線が描けます。
 
一方「死」の状態は横一線です。
 
そういう意味で
「死」は本質的に変化をしなくなること。
「生」は変化をすることだなぁと感じました。
 
例えば、
「老いる」という変化でさえ、
生きているからこそ起こるわけです。
 
「死」はそれ以上の変化を許しません。
 
また、
仮に私達が
既に「死」んでしまった何かが
変化しているように感じられる場合、
 
実際にはそれは
「生」きているこちら側の考え方や心が
変化しているからだと思います。
 
 
さて、ご存じのとおり
「変化」することには
常に相応のエネルギーが必要とされます。
 
例えば、
私達が自分の体重を変化させようとすれば、
その変化の幅は摂取するカロリー量に大きく影響されます。
 
あるいは
私達が自分の肉体の位置を
移動(変化)させようとすれば、
東京から横浜まで行くのと、
東京からアメリカまで行くのでは
それぞれ相応の物質的エネルギーが必要となります。
 
つまり
大きな変化のためには、
より大きなエネルギーが必要です。
 
そして
「生きている」ということは「変化している」
ということならば、
 
私達は意識する、しないに関わらず
常に「変化」しています。
 
 
大切なことは
私達は
自分自身の「変化」を
コントロールできる立場にいる
ということです。
 
例えば、それは
周囲の環境の変化に適応するためだったり
あるいは、理想の自分に近づくためだったりします。
 
そして、
もし私達が意識的に「変化」しようとするならば、
物質的なエネルギーとは同時に、
相応の精神的なエネルギーが必要になってきます。
 
 
どうしてそう思うようになったのか?
 
私は世界を旅する中たくさんの「生」
観察してきて、そのことを実感させられました。
 
なぜなら、
路上で物乞いをしながら生活する「生」も
社会起業家として活躍する「生」も
 
たしかに同じ「生」=「変化」ですが、
そこに含まれる
 
「精神的エネルギー」
「意志」のエネルギーの量
には歴然とした差があったからです。
 
 
環境に身を任せて起きる
受け身の「変化」は
「意志」のエネルギーを
ほとんど必要としません。
 
しかし、
自ら「変化」を生み出そうとする人は
強い「意志」の力に満ちているのです。
 
そして、それによって、
 
自分自身を「変化」させて、
かつ自分の周囲の環境を「変化」させ、
結果として
「世界」を「変え」ようとしているのです。
 
 
 
 
 
 
正直なところ「変わる」ということは
面倒くさいし、恐ろしいことでもあります。
 
なるべくならば、「変わりたくない」
それが私達の本音かもしれません。

 

実際、そういう願望を強く持っているとき

ヒトは大量の「情報」にまみれることで

安心感を得ようとします。

 
なぜなら、
 
「情報」とは、
それ自体は「変化しない」ものだから
 
私自身、旅の中で
たまにあまりにも連続する変化に
疲れきってしまうことがあり、
そういう時はインターネットを通じて、
YAHOOニュースを見たり、
YOUTUBEの動画を見たりと、
大量の安定した「情報」に接することで、
ボーっとするというような時間をとっていました。
 
しかし、
生きながらにして「死」ぬことを
求めても、それは両立し得ないものでしょう?
 
それに
真に「変わらない」ことを選ぶということは
「死」を意味してしまいます。
 
どちらにしろ、
 
私達がどう考えたところで
「生」きている限り、
 
時代や社会と呼ばれるような
周囲の環境も
なにより自分の肉体自身が
どんどん「変化」していく
のです。
 
 
私はコロンビアでピストル強盗に襲われた経験から
気づかされたことがあります。
 
それは
 
 
「『死ななくてラッキー!』
だったんじゃなくて、
『生』きていることが
ラッキーだったんだ!」
 
ってこと。
 
私達の生きるこの世界を
時空間を広げて、感じてみてください。
 
すると、この世界は圧倒的に「死」で
構築されていることに気づきませんか?
 
「過去」の全ては「変化」しません。
 
その「過去」という
膨大な「死」の山の頂きの先っちょに
私達の今この瞬間の「生」が、
 
ちょこん。
 
とのっかているだけなのです。
 
 
なんて不安定で、
 
なんてちっぽけなんでしょう。
 
 
 
けど、
 
だからこそ希少で、
だからこそ輝いている。
 
 
ならば、
その「生」=「変化」を受け身に眺めるのは
もったいないとは思いませんか?
むしろ、
この与えられた貴重な「生」を
真に自分自身の望む状態に近づけるよう、
挑んでみても良いなぁ、と私は感じています。
 
 
以上
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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