「歴史」とはなんでしょうか?
世界を旅していると、
常に、訪れた国の「歴史」や私達の国日本の「歴史」について
見聞きしたり、考えさせられたりします。
さて、
二年間の世界旅を通して、私が実感したことは
「私達が知っている『歴史』が必ずしも『真実』とは限らない」
ということです。
心に残っている出来事をひとつ紹介しましょう。
イランという国を訪れていたとき、
私は首都テヘランの平和博物館を偶然訪れました。
その展示内容の前半部分は
イラン・イラク戦争時の化学兵器使用に関するものでした。
しかし、後半は、なんと日本に落とされた原爆についてだったのです。
展示の中には、
広島の原爆投下前後のエピソードをドラマ化した映像が流れていました。
すると、となりで一緒に映像をみていた見知らぬイラン人のおじさまが
「君たちの国はとても大変な目にあったね。」
と涙を流しながら話しかけてきたのです。
私はすっかり感動してしまい、おじさまと堅く握手を交わしました。
私達多くの日本人にとって、おそらくイランとは
「核開発を進め、テロリストを育成する危険な国」といった
イメージではないでしょうか?
私自身も、訪れる前は、おおかれ少なかれ、
そういった面があるのだろうとイメージしていました。
しかし、実際は親切で心やさしい人々にしか会いませんでした。
加えて、
多くのイラン人が日本の「原爆」に関する歴史について良く知っていたのです。
恐ろしい!と私は感じました。
なぜなら、このことは自らイランを訪れなければ、
生涯知ることがなかったかもしれない、と思うからです。
さて、
私達は、様々な方法で「歴史」を学びます。
もっとも一般的な方法は「学校教育」でしょう。
教科書を通じて、先生から教えてもらう日本史や世界史がそれです。
「歴史」には、膨大な情報があります。
そして、それらは各分野の研究者や先生方が、
生涯をかけて解き明かしてきた情報の集積です。
当然、真摯に向き合い、学ぶべきものだと思います。
しかし、そのことと「真実」であるかどうか?とはやや話の次元が違います。
ご承知だとは思いますが、
「歴史」とは常に「勝者」の記録でもあります。
大抵の場合
勝者は生き残り、敗者は死にます。
死なずとも一切の力を奪われることになります。
ですので「勝者」は、
それまでの記録の集積を自由に扱うことができます。
自己を正当化するために、あるいは美化するために
都合の良い「情報」だけを残し、都合の悪い「情報」を消しさるのです。
もちろん、
全ての「情報」を操作しているわけでもないでしょうし、できるわけもありません。
しかし、
こと「国家間の関係」に関する情報は、「操作」あるいは「編集」されている
と考えた方がいいように思います。
つまるところ
「歴史」とは、イコール「勝者」の残した「情報」の集積。
だとも言えるのではないでしょうか?
さて、
私は旅の中、各国で現地の大学生など同世代の若者に対し、
「日本」についてのイメージなどを問いかけて来ました。
その経験から気づいたのですが、
多くの人々にとって「日本」とは常に「歴史」そのものである、ということです。
どういうことかと言うと例えば、
生涯で一度も日本を訪れたことのないアメリカ人にとって「日本」という国は、
あくまで「情報」でしかないということえす。
彼らにとって「日本」は良く知っているものではあっても、
「体験」したものではないので、
当然「感覚」や「感性」をともなったものではありません。
そして、彼らが知っている「日本」は、
「勝者」の残した「情報」の集積だったのです。
この場合の「勝者」とは誰のことであったかは、とりあえずおいておきます。
私は、そのこと自体を批判するつもりは一切ありません。
どこの国の人であれ「歴史」を学ぶ以上、
そういった環境下にいるのは当然だと思います。
まず、
大切なことは「歴史」とは、
多分に「勝者」によって影響されているものである
といったことを意識して向き合うことだと思います。
いや、これは何も
「歴史」に限ったことではないでしょう。
私達が日常与えられる「情報」の多くも
誰かに意図的に「編集」されているかもしれません。
前述したイランに関する日本での報道などを見ている私は、そう感じずには居られません。
「情報」は常に「勝者」「権力者」に操作されている、かもしれないと思って
向き合ってみることがとても大切だと感じています。
(ですから、私のこのブログ記事も鵜呑みにしちゃ駄目です。
確かめたいなら貴方自身の目で確かめることをオススメします。)
そして、
もうひとつ大切なことは
「情報」には「感覚」や「感性」は伴なっていない。
ということを自覚しておくこと
だと思います。
例えばある国に対しての「情報」は
その国を訪れたことが無くても手に入れられます。
知ることができます。
しかし、
肉体を実際に運んで、その国に立って、食べて、触って、嗅いでみなければ
「感じる」ことはできません。
以前「『言葉』について」で申し上げたとおり、
「感じる」ことがなければ、「区別する」ことはできても、
「受け入れ」たり、「溶け合う」ことはできません。
それでは、おそらく、
「真実」にたどり着くことはできないでしょう?
ですので、
「情報」に向き合う際には、
その「言葉」に捉えられず「心」で感じてみることが大切だと思います。
あらゆるレッテルに縛られず、私達の人間性に従って。
ついでに私が思うには
古来、私達日本人はそれが得意だったのではないでしょうか?
そして、その日本人の特性、
「区別する」のではなく、「受け入れ、溶け合う」特性を発揮することが、
いま世界中から求められているのです。
次回は「日本」について
以上
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