私達の毎日は、
「選択」によって創られています。
私は旅に出る前、日本に居て、
日々のルーティーンに陥っていたので、
そのことを意識はしませんでした。
しかし、旅に出ると
毎日が「選択」の連続でした。
次にどの国に行くか?
いつ出発するのか?
バスで向かうのか、徒歩なのか、ヒッチハイクなのか?
どの宿に泊まるのか?
宿は予約するのか、しないのか?
何を食べるのか?誰と食べるのか?
どの人に道を訪ねるか?
といった風に、あらゆることを
意識的に「選択」しなければ、何も始まりませんでした。
そして、
面白いことに旅ではそういった
自分の「選択」の「結果」が
すぐに、ダイレクトに現れるのです。
一日訪れるのが早かったばかりに、
雨でせっかくの登山が台無しになったり。
高いお金を払って乗ったバスが故障して、
結局丸一日到着がおくれたり、
と、まぁ、
とにかく「選択」の結果が容赦なく襲いかかってきました。
旅の前半は、
悪いことが重なると、うんざりして、
そうなると居心地の良い安宿を見つけたら
そこで、外にも出歩かず、ボーっとしたりもしてました。
そうは言っても、
バンコクやデリーなどといった「都市」に
居る時は、まだ良いのです。
なぜなら、
「都市」は「予定調和」で成立しているので、
「選択」の結果が、予想とそんなに大きくズれることは少ないのです。
一方で、
アジア、アフリカ、南米の田舎などでは、
次の町に行くバスが、いつ出るかも分からない。
本当に出るのかもわからない。
出たとしても、それが聞いていた予定通り
到着することは、まぁ、ほとんど無いわけです。
なので、
「田舎」では「選択」の結果が予測しづく、
その分、特に疲れがたまっていきました。
しかし、
旅も後半に入ると、
自らの「選択」に対しての考え方が変わってきました。
それは
自分の「選択」の結果を、
点としてではなく、
線として捉えていくことで
みえてきたのです。
ある「選択」が、悪い結果に結び付くとします。
例えば、エチオピアで山奥の秘湯に向かうため、
近隣の村で車をチャーターした時のこと。
温泉に向かう途中で、ドライバーとその仲間の男たちに、
あやうく襲われそうになったことがあります。
その直後には、
当然自分の「選択」を後悔していました。
そして、その出来事のせいで、予定は全て狂い
私は仕方なく、翌日別の温泉を訪れることにしました。
ところが、
その温泉でエチオピアの親友とも呼べる人と
出逢うことができたのです。
その時に、
「あの事件がなければ、この人達には会っていなかったんだなぁ」
ということを強く感じました。
それからというもの、
落ち着いて観察していると
直後には
「悪い」結果にしか繋がらない「選択」も、
そのさらに後ろでは
「良い」結果に繋がっている
ことに気がついたのです。
正確にいえば、
自分が「良い」状態になったときに振り返れば、
それ以前の出来事は全て「正しい選択」だったと言えるのです。
たぶん、その逆もしかりです。
大切なことは、
自分の「選択」は全て
「自分自身にとっての
最良の結果へと繋がっている」
と信じることだと感じています。
そういう感覚を持ち始めてからは、
私自身は「選択」をすることが早くなりました。
自分が選んだことは、全て正しい
と理屈でなく思えるようになったからです。
その結果、
私は旅を通して本当に多くの
素敵な友人と出逢うことができました。
感謝。
さらに、
そうやって考え出すと
もうひとつ大事なことを学びました。
それは、
自分以外の
「他人がしている『選択』も全て正しい」
というふうに感じられるようになったことです。
そう思えるようになると、
他人の今ある状態を受け入れられるように
なってきたのです。
このことは、
私にとって大きな学びだったと思います。
繰り返しになります。
私達の「選択」は常に正しい。
そう感覚的に
信じることができるようになると、
「選択」が楽しんで出来るようになります。
と同時に
他人を受け入れられるようにもなる
と実感しています。
そして、
このことを
もうひとつ深いレベルで感じてみると、
あの名作「バガボンド」の中で沢庵和尚が言う
「これから先も天によって
完璧に決まっていて、
それが故に完全に自由だ。」
というセリフの意味が、腑に落ちたのでした。
以上
次は「死」について
「選択」によって創られています。
私は旅に出る前、日本に居て、
日々のルーティーンに陥っていたので、
そのことを意識はしませんでした。
しかし、旅に出ると
毎日が「選択」の連続でした。
次にどの国に行くか?
いつ出発するのか?
バスで向かうのか、徒歩なのか、ヒッチハイクなのか?
どの宿に泊まるのか?
宿は予約するのか、しないのか?
何を食べるのか?誰と食べるのか?
どの人に道を訪ねるか?
といった風に、あらゆることを
意識的に「選択」しなければ、何も始まりませんでした。
そして、
面白いことに旅ではそういった
自分の「選択」の「結果」が
すぐに、ダイレクトに現れるのです。
一日訪れるのが早かったばかりに、
雨でせっかくの登山が台無しになったり。
高いお金を払って乗ったバスが故障して、
結局丸一日到着がおくれたり、
と、まぁ、
とにかく「選択」の結果が容赦なく襲いかかってきました。
旅の前半は、
悪いことが重なると、うんざりして、
そうなると居心地の良い安宿を見つけたら
そこで、外にも出歩かず、ボーっとしたりもしてました。
「選択」することに疲れてしまうのです。
そうは言っても、
バンコクやデリーなどといった「都市」に
居る時は、まだ良いのです。
なぜなら、
「都市」は「予定調和」で成立しているので、
「選択」の結果が、予想とそんなに大きくズれることは少ないのです。
一方で、
アジア、アフリカ、南米の田舎などでは、
次の町に行くバスが、いつ出るかも分からない。
本当に出るのかもわからない。
出たとしても、それが聞いていた予定通り
到着することは、まぁ、ほとんど無いわけです。
なので、
「田舎」では「選択」の結果が予測しづく、
その分、特に疲れがたまっていきました。
しかし、
旅も後半に入ると、
自らの「選択」に対しての考え方が変わってきました。
それは
自分の「選択」の結果を、
点としてではなく、
線として捉えていくことで
みえてきたのです。
ある「選択」が、悪い結果に結び付くとします。
例えば、エチオピアで山奥の秘湯に向かうため、
近隣の村で車をチャーターした時のこと。
温泉に向かう途中で、ドライバーとその仲間の男たちに、
あやうく襲われそうになったことがあります。
その直後には、
当然自分の「選択」を後悔していました。
そして、その出来事のせいで、予定は全て狂い
私は仕方なく、翌日別の温泉を訪れることにしました。
ところが、
その温泉でエチオピアの親友とも呼べる人と
出逢うことができたのです。
その時に、
「あの事件がなければ、この人達には会っていなかったんだなぁ」
ということを強く感じました。
それからというもの、
落ち着いて観察していると
直後には
「悪い」結果にしか繋がらない「選択」も、
そのさらに後ろでは
「良い」結果に繋がっている
ことに気がついたのです。
正確にいえば、
自分が「良い」状態になったときに振り返れば、
それ以前の出来事は全て「正しい選択」だったと言えるのです。
たぶん、その逆もしかりです。
大切なことは、
自分の「選択」は全て
「自分自身にとっての
最良の結果へと繋がっている」
と信じることだと感じています。
そういう感覚を持ち始めてからは、
私自身は「選択」をすることが早くなりました。
自分が選んだことは、全て正しい
と理屈でなく思えるようになったからです。
その結果、
私は旅を通して本当に多くの
素敵な友人と出逢うことができました。
感謝。
さらに、
そうやって考え出すと
もうひとつ大事なことを学びました。
それは、
自分以外の
「他人がしている『選択』も全て正しい」
というふうに感じられるようになったことです。
そう思えるようになると、
他人の今ある状態を受け入れられるように
なってきたのです。
このことは、
私にとって大きな学びだったと思います。
繰り返しになります。
私達の「選択」は常に正しい。
そう感覚的に
信じることができるようになると、
「選択」が楽しんで出来るようになります。
と同時に
他人を受け入れられるようにもなる
と実感しています。
そして、
このことを
もうひとつ深いレベルで感じてみると、
あの名作「バガボンド」の中で沢庵和尚が言う
「これから先も天によって
完璧に決まっていて、
それが故に完全に自由だ。」
というセリフの意味が、腑に落ちたのでした。
以上
次は「死」について
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