世界を旅していて
考えさせられたことの一つに
「豊かさ」とは何か?
という問いがありました。
みなさんは「豊かさ」って
何だと思いますか?
もちろん最低限
身につける衣服があって、ご飯が食べられて、
住む場所があるに越したことはないと思います。
しかし、そこから先の細かなことは
国や地域、文化によって異なることを
実感してきました。
同時に
何が「豊かでない」のかも人によって異なります。
そして、
結論から言えば、私は今
「豊かさ」とはそれぞれの
「心のあり方」そのものである
と感じています。
私は、今回の旅で
バングラデシュをはじめミャンマー、
ネパール、エチオピア、ウガンダなどの
国連的には「世界最貧国」と呼ばれる国々
をいくつも訪れました。
そして、
そこでたくさんの「豊かな」人々に
出逢ったのです。
たしかに、
そういった国々では、
道端で赤ん坊を抱えながら物乞いをしている母親や
やせ細った子供達が食べるためにゴミを拾い集めていたりします。
家すら無い人も大勢います。
たとえそこまで極限の状態ではなくても、
一般の多くの家庭に冷蔵庫も洗濯機も時には
テレビさえないこともしばしばです。
ですから、
経済的・物質的には
私たちと比べると
確かに「貧しい」と言えるでしょう。
しかし、
それでもなお、
私はそういった国々で
たくさんの「豊かな」人々に触れてきました。
例えば、
バングラデッシュの結婚式。
人々は私にお腹いっぱいになるまで
食事をふるまってくれ、
「美味しいだろ!?だったらもっと食べなさい(笑)!」
と言ってすすめてくれました。
また、
ミャンマーで仲良くなった姉妹は
ある時
「このペットボトルを通して太陽を見ると仏さまが見えるよ」
と言って、
キャッキャッとはしゃいぎながら、
私に見せてくれました。
そして、
ウガンダで泊めて頂いたご家族には、
自分たちが普段、豆しか食べていないにも関わらず、
私に飼っていた鶏をわざわざ絞めてから、
夕食に出してくれました。
何が言いたいかというと、
お金がないから、
あるいは物がないからと言って、
それと
彼らの心が「貧しい」かどうかとは
必ずしも直結していない
ということです。
お金がなくても、
マクドナルドに行けなくても、
テレビがなくても、
それでも彼らは
家族と過ごす時間を
大切にしていたし、
困っている人を助ける
優しさも持っていました。
私の眼には、
彼らのそんな「心の豊かさ」が強く焼き付いています。
さて、
とはいえ、
実際にたくさんの人々が飢餓状態で、
必要な医療も受けられず、明日の命もしれない状態にいる。
それは事実です。
その現状に対して、
経済的・物質的な「富」に恵まれている私たち
先進諸国の人々がなんらかの形で取り組むことは
必要不可欠だと思います。
しかし、その際に気をつけなければ
いけないことがあると感じています。
それは
「援助」の実態について知る
ということです。
私は、
今回の旅の中で、
多くの先進国のNGOや政府系組織、
そして社会起業家が「貧困国」で
活動している現場を観察してきました。
そこで、気づかされたのですが、
「現場」に深く入り込んでいる人ほど、
「援助」という言葉を使わない
のです。
何故か?
それは、
「援助」という言葉は
そもそも自分が
「援助を施す相手よりも『幸せ』である」
という前提を
持っていないと使えない概念
だからです。
私は
そのこと自体については
良いとも悪いとも思いません。
しかし、
その考え方はときに
「価値観の強要」を伴う可能性があるのです。
以下は、
ベトナムで聞いた話。
ベトナムの孤児院に出資していた
フランスのNPOのスタッフがあるとき、
視察に来て驚いたそうです。
なぜなら、
孤児院には子供の人数分だけの
ベットが用意されていなかったから。
ほとんどの子供は床で寝ていたのです。
院長は「必要無いから」と説明したが、
フランス人にとっては
「ベットで眠る」は刑務所の中でも守られる基本的人権の
ようなもので、それが実施されていないことを知ると、
怒りだしたそうです。
そして
「資金を贈るから、すぐにベッドを人数分用意しろ!」
と院長に「命令」しました。
後日ベッドが届きました。
全ての子供たちが眠りについた其の夜、
院長が部屋に様子を見に行くと、
ほとんどの子供が床で眠っていたそうです。
なぜならベトナムの夏の気候が暑すぎて
床で寝た方が涼しかったから。
という話。
これは笑い話ですみますが、
実際はあらゆる「援助」の現場で
これよりも深刻な「価値観の強要」が
行われていたとしたら、
笑えないのは想像できるでしょう?
とにかく問題は、
自分たちは
「豊か」で「正しい」と思い込むこみ、
相手との「違い」を
「理解」しようとしない態度
だと感じています。
だから、逆に
現地で長い間活動を続けている社会起業家など、
助けを必要としている人々のそばに
いつも寄り添っている皆さんは
「援助」という言葉をめったに使わない
のです。
なぜなら、
彼らにとって、
助けを必要としている人々は
友人であり、家族であるから。
私たちは、
親しい友人や兄弟を助ける時に
「援助」なんて言葉は使わないでしょう?
もちろん、
「援助」そのものを非難するつもりはありません。
この世界には
あまりに大勢の助けを必要としている人が居て、
その人たちを「援助」する人も大勢必要だと
実感しているからです。
大切なことは
私たちが「援助」を行うとき、
多少なりとも
「自分の方が相手よりも『豊か』だ」
と考えているんだなぁってことを
自覚すること。
と同時に、
私たちが「援助」を行う
「貧しい」国の人々が持つ、
素晴らしい文化や価値観は何なのか?
彼らから
「学ぶべきこと」は何か?
をしっかりと自らに問うていくことだと
感じています。
繰り返しになりますが、
私は「世界最貧国」で
多くの心「豊かな」人々に出逢いました。
家族を大切にする人々、
困っている人手助けする人々、
そう、確かに彼らは「豊か」でした、
そしてその笑顔は「幸せ」そうでもありました。
少なくとも、
平日のJR中央線の満員電車に乗っている人々よりは
何倍も。
それが、ちょっと悔しかったり、、、
そして、
そのことから、やはり
私は今
「豊かさ」とは
「持っているもの
=【have what】の比較」
から見いだすものではなく、
「心のあり方=【be what】」
そのものなのだ
と実感しているのです。
以上
考えさせられたことの一つに
「豊かさ」とは何か?
という問いがありました。
みなさんは「豊かさ」って
何だと思いますか?
もちろん最低限
身につける衣服があって、ご飯が食べられて、
住む場所があるに越したことはないと思います。
しかし、そこから先の細かなことは
国や地域、文化によって異なることを
実感してきました。
同時に
何が「豊かでない」のかも人によって異なります。
そして、
結論から言えば、私は今
「豊かさ」とはそれぞれの
「心のあり方」そのものである
と感じています。
私は、今回の旅で
バングラデシュをはじめミャンマー、
ネパール、エチオピア、ウガンダなどの
国連的には「世界最貧国」と呼ばれる国々
をいくつも訪れました。
そして、
そこでたくさんの「豊かな」人々に
出逢ったのです。
たしかに、
そういった国々では、
道端で赤ん坊を抱えながら物乞いをしている母親や
やせ細った子供達が食べるためにゴミを拾い集めていたりします。
家すら無い人も大勢います。
たとえそこまで極限の状態ではなくても、
一般の多くの家庭に冷蔵庫も洗濯機も時には
テレビさえないこともしばしばです。
ですから、
経済的・物質的には
私たちと比べると
確かに「貧しい」と言えるでしょう。
しかし、
それでもなお、
私はそういった国々で
たくさんの「豊かな」人々に触れてきました。
例えば、
バングラデッシュの結婚式。
人々は私にお腹いっぱいになるまで
食事をふるまってくれ、
「美味しいだろ!?だったらもっと食べなさい(笑)!」
と言ってすすめてくれました。
また、
ミャンマーで仲良くなった姉妹は
ある時
「このペットボトルを通して太陽を見ると仏さまが見えるよ」
と言って、
キャッキャッとはしゃいぎながら、
私に見せてくれました。
そして、
ウガンダで泊めて頂いたご家族には、
自分たちが普段、豆しか食べていないにも関わらず、
私に飼っていた鶏をわざわざ絞めてから、
夕食に出してくれました。
何が言いたいかというと、
お金がないから、
あるいは物がないからと言って、
それと
彼らの心が「貧しい」かどうかとは
必ずしも直結していない
ということです。
お金がなくても、
マクドナルドに行けなくても、
テレビがなくても、
それでも彼らは
家族と過ごす時間を
大切にしていたし、
困っている人を助ける
優しさも持っていました。
私の眼には、
彼らのそんな「心の豊かさ」が強く焼き付いています。
さて、
とはいえ、
実際にたくさんの人々が飢餓状態で、
必要な医療も受けられず、明日の命もしれない状態にいる。
それは事実です。
その現状に対して、
経済的・物質的な「富」に恵まれている私たち
先進諸国の人々がなんらかの形で取り組むことは
必要不可欠だと思います。
しかし、その際に気をつけなければ
いけないことがあると感じています。
それは
「援助」の実態について知る
ということです。
私は、
今回の旅の中で、
多くの先進国のNGOや政府系組織、
そして社会起業家が「貧困国」で
活動している現場を観察してきました。
そこで、気づかされたのですが、
「現場」に深く入り込んでいる人ほど、
「援助」という言葉を使わない
のです。
何故か?
それは、
「援助」という言葉は
そもそも自分が
「援助を施す相手よりも『幸せ』である」
という前提を
持っていないと使えない概念
だからです。
私は
そのこと自体については
良いとも悪いとも思いません。
しかし、
その考え方はときに
「価値観の強要」を伴う可能性があるのです。
以下は、
ベトナムで聞いた話。
ベトナムの孤児院に出資していた
フランスのNPOのスタッフがあるとき、
視察に来て驚いたそうです。
なぜなら、
孤児院には子供の人数分だけの
ベットが用意されていなかったから。
ほとんどの子供は床で寝ていたのです。
院長は「必要無いから」と説明したが、
フランス人にとっては
「ベットで眠る」は刑務所の中でも守られる基本的人権の
ようなもので、それが実施されていないことを知ると、
怒りだしたそうです。
そして
「資金を贈るから、すぐにベッドを人数分用意しろ!」
と院長に「命令」しました。
後日ベッドが届きました。
全ての子供たちが眠りについた其の夜、
院長が部屋に様子を見に行くと、
ほとんどの子供が床で眠っていたそうです。
なぜならベトナムの夏の気候が暑すぎて
床で寝た方が涼しかったから。
という話。
これは笑い話ですみますが、
実際はあらゆる「援助」の現場で
これよりも深刻な「価値観の強要」が
行われていたとしたら、
笑えないのは想像できるでしょう?
とにかく問題は、
自分たちは
「豊か」で「正しい」と思い込むこみ、
相手との「違い」を
「理解」しようとしない態度
だと感じています。
だから、逆に
現地で長い間活動を続けている社会起業家など、
助けを必要としている人々のそばに
いつも寄り添っている皆さんは
「援助」という言葉をめったに使わない
のです。
なぜなら、
彼らにとって、
助けを必要としている人々は
友人であり、家族であるから。
私たちは、
親しい友人や兄弟を助ける時に
「援助」なんて言葉は使わないでしょう?
もちろん、
「援助」そのものを非難するつもりはありません。
この世界には
あまりに大勢の助けを必要としている人が居て、
その人たちを「援助」する人も大勢必要だと
実感しているからです。
大切なことは
私たちが「援助」を行うとき、
多少なりとも
「自分の方が相手よりも『豊か』だ」
と考えているんだなぁってことを
自覚すること。
と同時に、
私たちが「援助」を行う
「貧しい」国の人々が持つ、
素晴らしい文化や価値観は何なのか?
彼らから
「学ぶべきこと」は何か?
をしっかりと自らに問うていくことだと
感じています。
繰り返しになりますが、
私は「世界最貧国」で
多くの心「豊かな」人々に出逢いました。
家族を大切にする人々、
困っている人手助けする人々、
そう、確かに彼らは「豊か」でした、
そしてその笑顔は「幸せ」そうでもありました。
少なくとも、
平日のJR中央線の満員電車に乗っている人々よりは
何倍も。
それが、ちょっと悔しかったり、、、
そして、
そのことから、やはり
私は今
「豊かさ」とは
「持っているもの
=【have what】の比較」
から見いだすものではなく、
「心のあり方=【be what】」
そのものなのだ
と実感しているのです。
以上
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