2013-05-31

世界一周旅を終えて、今思うこと⑮ 「教育」について

「教育」

というのは、
つまるところ大人からの次世代へのメッセージです。


そして、
その中身も、伝え方も国や文化ごとに違ってました。


ある国では、
学校で教えること以上に
親やおじいちゃん・おばあちゃんが伝えることや語ることを重視していたり。

またある国では、
システマチックに生きるために必要な技術を伝えることを重視していたり。


正直、
どれが良い教育で、どれが悪い教育だ。
なんてことは決められません。


しかし、
効率的でなかったり、

あるいは、
伝える技術とそのための資金が不足していたり、
といった理由で、

メッセージが十分に伝えられていない。
そんな状況もたくさん目の当たりにしました。


チョーク一本、ノート一冊が
手に入らないために伝える機会を、学ぶ機会を失っている
次世代が大勢いるのだから。


現在、
先進諸国から途上国に対し行われている
「教育」分野への支援と呼ばれているものは、
その点で、大変重要で、有効なものだと感じています。


しかし、
気を付けたいのは、
それが行き過ぎたときのことです。


つまり、
メッセージを伝えるお手伝いは結構ですが、
その内容まで、いじくるのはいかがでしょうか?
ということです。


ウガンダの小さな村の学校で、
子供たちがきれいな英語を話していたのに驚きました。

そのことを
彼らの父親に伝えると、

「けれど、その分子供たちは私たち固有の言葉はあまり使わないんだ。」

と、少しさみしげだったのが印象的です。



「固有の言葉」

その背後に
大人たちが伝え残したい文化や価値観が
どれほどつまっているものか、計り知れません。


だから私は、

あらゆる「教育」支援が決して
「価値観の押し付け」にならないことを願っています。



それぞれが違って、ユニークだからこそ面白いし、価値があるのです。


もし仮に、
あらゆるすべてが同一のモノが二つあったら、
それらはお互いに

「どっちでも良い」存在、になっていまいます。


どっちでも良いってことは
どっちかは無くても良いってことです。


その意味で、
「多様性」とは

価値評価の一側面ではなく、
「価値」の本質そのものなのです。


大人が
「自身が誇るべきもの」を
持っていたあらゆる国では、

それを伝えるために「教育」に
真剣に向き合っていました。


その逆もしかり。



私たちが、
次世代に伝えたいこと。

私たちにとっての「誇らしいもの」とは
果たしてなんでしょうか?


もし、
それを持つ大人が少なくなっているならば、
その国、その宗教、その文化は

すでに
「どっちでも良い」ものになりつつあるのだ

と自覚せねばなりません。



以上


次でラスト。

旅のテーマ
「三十年後の日本が世界から憧れられる国になるためには何が必要か?」

の答えについて。







































0 件のコメント:

コメントを投稿