2013-05-02

世界一周旅を終えて、今思うこと④ 「芸術」について

今回は③「言葉」についての延長戦。

「芸術」について

 
 
まずは前回シェアした内容の一部をおさらいしましょう。
 
私の得た知恵を簡潔にまとめてみますと、こんな感じです。
 
 

①「世界」には「左脳」と「右脳」の世界がある。

 

②「左脳」の世界は「言葉」によって成立する世界、「区別する」世界、二項対立の世界。

大ざっぱに言って「左脳」の世界には次のものが属すると思っています。

「思考」「優劣」「規範」「社会」「法律」「国家」「西洋哲学」「科学」「都市」「過去」「未来」など

 

③一方、「右脳」の世界は「感性」の世界、全てを受け入れ、溶け合う世界。

「肉体」「感性」「感覚」「農」「食」「東洋思想」「ヨガ」「瞑想」「現在」などが属していると言えるでしょう。

 
 
そして付け加えておくと①②③を踏まえて、ヨーロッパ世界とそれ以外の世界を旅して気づいたのですが、
「西洋哲学」あるいは「科学」は
「『神』とは何か?」「私達はどこからきてどこへ行くのか?」「宇宙とは何なのか?」
という根源的な問に対して「細部を見つめる」というアプローチを重視しているのです。
森羅万象の細部を見つめて、区別し、より細かくしていくことで、「この世界について知ろう」としているのです。
 
一方「東洋思想」は全く同じ
「『神』とは何か?」「私達はどこからきてどこへ行くのか?」「宇宙とは何なのか?」
という根源的な問に対して「大いなる存在を感じ、融合する」というアプローチ
重視しているのです。
森羅万象を感じ、受け入れ、自らの精神を森と、大地と、空と、地球と、宇宙と一体にすることで、
やはり「この世界について知ろう」としているのです。
 
つまり同じ問に対して、全く逆のアプローチで迫ろうとしていたのです。
 
 
さて、やや脱線したので、本題へ。
 
上記の知恵を得てから、
旅を続けていると、あるとき、両者の交差点にあるものの存在に気づくことができました。
 
それこそが「芸術」だったのです。
 
「芸術」とは「美しい」ものを「創りだす」行為とその対象のことだと思います。
 
では、「美しい」とは何なのか?
 
昔、日本の伝統芸能である「能」について学んでいたときに
 

「神が創った真に美しいもの」=「自然」は人間がどれだけ模倣しても創りだすことができない、

だから「能」という演劇は、可能な限り演出をそぎ落とし、その「美しい」を創りだす役目を

観客の「想像力」に委ねたのだ。

 
というレポートを書いたことがあります。

 

つまり、「美しい」とは「神が創ったもの」=「自然」そのものなのです。

そして、「芸術」はそれらを通して「美しい」を想像させる(感じさせる)ためのきっかけなのだと気づきました。
 
 
芸術家はまず、「右脳」で「美しい」何かを感じます
 
次にそれを表現したい!伝えたい!共感したい!という意志を持ち、
それを表現する方法(媒介)を「左脳」で「思考」します
 
「思考」し「設計(言語化)」したものを、実際に具現化(行動)していき、
音楽や絵画、彫刻、ダンスなどが現れます。
 
受け手は、その創りだされたものを「媒介として感じることで、
ときに芸術家が感じた「美しい」何か、そのものか、それに似たものを「感じる」のです。
 
 
つまり「芸術」とは
明確に「左脳」と「右脳」交差する創造行為なのです。

 

さて、一歩深めてみましょう。

「左脳」と「右脳」が交差する創造行為としては何も、
音楽や絵画、彫刻、ダンスといった、いわゆる「アート」でなくても良いのではないでしょうか?
 
それが、
工業製品であれ、サービスであれ、組織であれ、都市であれ、国家であれ、
もし創り手が「美しい」ものを生み出したいと意志して行動するのであれば、
あるいは、そういったことも可能だと思うのです。
 
その最たる例が、スティーブジョブズが創りだしたAPPLEの製品たちです。
 

そして、大切なのは

私達が知っているあらゆる「仕事」も、それが人間による「創造行為」である以上、

私達の意志次第で、「芸術」の域まで高めることができる、

「美しい」ものにしようとすれば、それが可能だということです。

 

そのためには、ただ漫然と「造る」のではなく、

自分の感性や感情、感動したことを大事にしてそれを込めて「創る」ことが重要なのでしょう。

 
つまり、恵まれた私達には、
人生を「アート」にするか、それとも単なる「記号」にするか。
自ら決めることが委ねられているのです。
 
 
 
最後にもひとつ!
当然ながら、本来「左脳」に属する「言葉」というものも、
「左脳」と「右脳」が交差する創造行為まで高めることができます
 
それが「詩」です。
 
そして、旅を終えた今、私が感じているのは
「日本語」という私達の固有言語は生来「詩的」な言語だなぁということです。
 
「区別するため」の「道具」としてだけではなく、
むしろ「感じるため」それを「表現し、伝えるため」の手段として優れたもののように感じるのです。
 
だから、欧米的世界観からたまに、日本人は曖昧で、はっきりしないなどと揶揄されることがありますが、
 

それも

私達日本人が「感じること」「受け入れること」「融合すること」を大切にして、

そのための「言葉」を使って「思考」しているから、当然のことのように思います。

そして、今はその事が、とても誇らしいのです!!

 
以上
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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