今回は③「言葉」についての延長戦。
「芸術」について
まずは前回シェアした内容の一部をおさらいしましょう。
私の得た知恵を簡潔にまとめてみますと、こんな感じです。
①「世界」には「左脳」と「右脳」の世界がある。
②「左脳」の世界は「言葉」によって成立する世界、「区別する」世界、二項対立の世界。
大ざっぱに言って「左脳」の世界には次のものが属すると思っています。
「思考」「優劣」「規範」「社会」「法律」「国家」「西洋哲学」「科学」「都市」「過去」「未来」など
③一方、「右脳」の世界は「感性」の世界、全てを受け入れ、溶け合う世界。
「肉体」「感性」「感覚」「農」「食」「東洋思想」「ヨガ」「瞑想」「現在」などが属していると言えるでしょう。
そして付け加えておくと①②③を踏まえて、ヨーロッパ世界とそれ以外の世界を旅して気づいたのですが、
「西洋哲学」あるいは「科学」は
「『神』とは何か?」「私達はどこからきてどこへ行くのか?」「宇宙とは何なのか?」
という根源的な問に対して、「細部を見つめる」というアプローチを重視しているのです。
森羅万象の細部を見つめて、区別し、より細かくしていくことで、「この世界について知ろう」としているのです。
一方「東洋思想」は全く同じ
「『神』とは何か?」「私達はどこからきてどこへ行くのか?」「宇宙とは何なのか?」
という根源的な問に対して、「大いなる存在を感じ、融合する」というアプローチを
重視しているのです。
森羅万象を感じ、受け入れ、自らの精神を森と、大地と、空と、地球と、宇宙と一体にすることで、
やはり「この世界について知ろう」としているのです。
つまり同じ問に対して、全く逆のアプローチで迫ろうとしていたのです。
さて、やや脱線したので、本題へ。
上記の知恵を得てから、
旅を続けていると、あるとき、両者の交差点にあるものの存在に気づくことができました。
それこそが「芸術」だったのです。
「芸術」とは「美しい」ものを「創りだす」行為とその対象のことだと思います。
では、「美しい」とは何なのか?
昔、日本の伝統芸能である「能」について学んでいたときに
「神が創った真に美しいもの」=「自然」は人間がどれだけ模倣しても創りだすことができない、
だから「能」という演劇は、可能な限り演出をそぎ落とし、その「美しい」を創りだす役目を
観客の「想像力」に委ねたのだ。
というレポートを書いたことがあります。
つまり、「美しい」とは「神が創ったもの」=「自然」そのものなのです。
そして、「芸術」はそれらを通して「美しい」を想像させる(感じさせる)ためのきっかけなのだと気づきました。
芸術家はまず、「右脳」で「美しい」何かを感じます。
次にそれを表現したい!伝えたい!共感したい!という意志を持ち、
それを表現する方法(媒介)を「左脳」で「思考」します。
「思考」し「設計(言語化)」したものを、実際に具現化(行動)していき、
音楽や絵画、彫刻、ダンスなどが現れます。
受け手は、その創りだされたものを「媒介」として感じることで、
ときに芸術家が感じた「美しい」何か、そのものか、それに似たものを「感じる」のです。
つまり「芸術」とは
明確に「左脳」と「右脳」交差する創造行為なのです。
さて、一歩深めてみましょう。
「左脳」と「右脳」が交差する創造行為としては何も、
音楽や絵画、彫刻、ダンスといった、いわゆる「アート」でなくても良いのではないでしょうか?
それが、
工業製品であれ、サービスであれ、組織であれ、都市であれ、国家であれ、
もし創り手が「美しい」ものを生み出したいと意志して行動するのであれば、
あるいは、そういったことも可能だと思うのです。
その最たる例が、スティーブジョブズが創りだしたAPPLEの製品たちです。
そして、大切なのは
私達が知っているあらゆる「仕事」も、それが人間による「創造行為」である以上、
私達の意志次第で、「芸術」の域まで高めることができる、
「美しい」ものにしようとすれば、それが可能だということです。
そのためには、ただ漫然と「造る」のではなく、
自分の感性や感情、感動したことを大事にしてそれを込めて「創る」ことが重要なのでしょう。
つまり、恵まれた私達には、
人生を「アート」にするか、それとも単なる「記号」にするか。
自ら決めることが委ねられているのです。
最後にもひとつ!
当然ながら、本来「左脳」に属する「言葉」というものも、
「左脳」と「右脳」が交差する創造行為まで高めることができます。
それが「詩」です。
そして、旅を終えた今、私が感じているのは
「日本語」という私達の固有言語は生来「詩的」な言語だなぁということです。
「区別するため」の「道具」としてだけではなく、
むしろ「感じるため」それを「表現し、伝えるため」の手段として優れたもののように感じるのです。
だから、欧米的世界観からたまに、日本人は曖昧で、はっきりしないなどと揶揄されることがありますが、
それも
私達日本人が「感じること」「受け入れること」「融合すること」を大切にして、
そのための「言葉」を使って「思考」しているから、当然のことのように思います。
そして、今はその事が、とても誇らしいのです!!
以上
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