2012-04-23

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾 森本喜久男さん②

Q、改めて、カンボジアでの活動に至る経緯。

K.「ユネスコのコンサルタントをやってから、
ご自身でカンボジアで活動をしようするにはきっかけがあったんですか?」

「それはね、やっぱり僕は職人だから、調査員じゃないから。
僕から見れば、その時出逢った村で、出逢ったおばちゃん達が創ったものを
仲買人に二束三文で買い叩かれているのを実際に現場で見て、
『それは違うぜ』って思ったんだよね。
やっぱり彼女たちの腕に見合った正当な対価を払って
仕事ってのをさせてあげたいなって思ったのが一つのきっかけだね。」

K.「なるほど、それはやっぱり現場に行ったからですね。」

「それに、僕はカンボジアの素晴らしい布の世界を少し知っていたから、
それを自分たちの手で復興させたいなって思ったね。
これは僕の布に対する思いだよね。僕は布好きだから。」

K.「森本さんが、忘れかけられていたカンボジアの織物文化を
再発見されたわけですね。」

「まぁ、そうかもしれない。」

K.「危なかったですね。少し遅かったら、、、」

「今だったらもう出てこないね。
あの時だから出来た。あの時出逢った人間国宝級のおばあちゃん達も
今は半分以上亡くなっている。

例えば藍染、僕はそれをやってたおっちゃんと出逢ったんだけど、
その人にインタビューして、
どういう道具を使っていたかとか、全部メモってる。

それが無かったら、
カンボジアで藍染をどういう工程で創っていたかなんかも
どこにも記録が残っていなかった。」

K.「なるほど。そういった記録は
昔織物などをやっていた方々に聞きとりをして
残していったんですね。」

「そう。調査は始めはジグソーパズルみたいなもの。」

C.「その当時は通訳をつけて調査をしていたんですか?」

「うん、英語の通訳をつけてた。
けど、在る時に気がついたんだけど
僕が『それは違うよ』って怒ったり、ネガティブなことを
相手に伝えようとすると、
通訳がそれを伝えてないんだよね。
良い話しかしないんだよね。

C.「やっぱり感情が入っちゃいますよね。」

「入っちゃうんだね。だから、
これは僕がクメール語で直接伝えなきゃいけないなと思うようになった。」

K.「そうでしたか。」

「僕はタイ語は読み書き出来たんだけど、
ほら、タイの大学でテキスタイルデザインを教えていたりもしたからね。」

K.「おもしろい!」

「だけどクメール語は喋れるけど、いまも読み書きは出来ないね。」

K.「ちなみにネガティブなことって例えばどういう内容ですか?」

「例えばね『化学染料は使っちゃいけないよ』とかね。
人間って怠惰な生き物だからね。
そっちに流れるのを止めるのが僕の仕事だから。」

K.「『叱る』に近いですね。」

「そう。その叱るときに相手に伝えたい内容が伝わってないと困る。
これは多分ね。通訳介して英語で仕事をしている人は
皆思っていることだと思う。」

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『伝統の森』にて

Q、現在の活動と、そこに至るまで

K.「今現在、何人の人が働いているんですか?」

「いま実質は260名くらい。」

K.「森本さんが再発見したとはいえ、
若い人達は知識も経験も無い所からのスタートですよね?
その点はどうでしたか。」

「そこはね。人間国宝級のおばあちゃんとかをまず呼んで来てもらって、
そこで指導をしてもらう。
僕は外国人だから技術を教えないで環境を整えていくのが仕事。
いまもそうだよ。」

K.「へぇ~」

「僕は村を創って、森を創ってるけどそれは環境を整える事。
経験、知識、知恵ってのは
カンボジアの人達が持ってるものだと
僕は理解しているから。」

K.「それが繋がる場を創るって感じですね?」

「そうそう。それが発揮できる場を
創るのが僕の仕事。」

K.「布を創る職人の仕事は最初から現地の人達に認められたんですか?」

「当時はまだ内戦をやっていたから、
鉄砲のたまがどこから飛んでくるかもわからなくて、
地雷もたくさん埋まってたし。

だからカンボジアの人達はまだそんな事に目が行く段階じゃなかったね。
今日生きるかどうかもわからないんだから。」

K.「えぇ」

「でも僕は10年、20年経ったときに其れが成り立つってわかったから。
そして、当時それを始められるポジションに自分がいることもわかってた。」

K.「なるほど」

「と同時に、その頃ぼくはたまたまタイにいて、大学でテキスタイルを教えていたんだけど、そこでタイの専門家がカンボジアの布を『これはタイのものだ!』って言い張ってたのよ。

彼らも高度成長を遂げる中で、自分達の文化というか、素性を語りたくなったんだろうね。」

K.「アイデンティティですね。」

「そう。けれど、僕はその時に
この布は間違いなくカンボジアのものだ、ってのを確認した。
だから、カンボジア側にもそのカンボジアのアイデンティティを
公的に主張する場がないといけないと理解していたから。
そこで僕はこのクメール伝統織物研究所っていうのを立ち上げたんだよ。」

K.「なるほど、ココにはそういう場としての機能もあるんですね。」

「いわゆる人間って、衣食住が整ってくれば
氏素性が語りたくなる(笑)」

K.「そうなんですよね。
けど、カンボジアの人にとては直近まで殺し合いやってたわけですから、
誇りもなにも無いんですよね。」

「そうだね。やっと、ここ最近だよ。
カンボジアの人達が僕らの活動に興味をもってくれ出したのは。」

K.「そうなんですか!」

「あと、この前もね、僕ねクメール語で本を書いたの
2000冊くらい印刷して、それを無料で配った。
そしたらね、それの反響がすごくてね。
その本をシアヌーク殿下も読んでくれて、
手書きの感謝状をもらったの(笑)。」

K.「えぇ、本当ですか?スゴイ」

「『手書きなんて普通ないんだよ!』って言われたよ(笑)
本当にうちがやっている事を解った上で、
頂いた感謝状だからね。嬉しかったよ。」

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Q、森本さんのモチベーションとは

K.「でも、既にある意味で形を創り上げていたタイから移って、
改めてカンボジアでやろうとした時の
森本さんのモチベーションって何だったんですか?
当然、日本に戻って何かをやって行くという選択肢も常にあったんですよね?」

「僕にはそれはなかったの(笑)」

K.「あ、なかったんですか(笑)」

「正直に言っちゃうと、
83年に日本を出てきたでしょう。
本当は82年に出たかったけど、とても工房を片づけられなかった。
弟子も居たしね。」

K.「親方ですもんね(笑)」

「での、その時ね日本では丁度『飽食の文化』が始まっていた。」

K.「その頃からか。」

「当時ね日本は頭と胃袋は日本列島に乗っかっているけど、
手と足は東南アジアに転がってる。
その上で、日本は飽食に甘んじている。
実を言うと、僕はそういう日本に少し嫌気がさしていた。」

K.「あぁ、なるほど。」

「でね、丁度大友克洋ってマンガ家いるでしょう。
彼の『さよならニッポン』っていうマンガがあってね、それで僕も
『さよならニッポン』しちゃおうって(笑)」

「(一同笑)」

「あと、写真家の藤原新也の『全東洋街道』
あれが出たばっかりの頃、それを見ながらさ。」

K.「最近いろんな方のお話を伺って思うんですけど、
あの80年代の初頭って日本人の若い世代が改めて『気づき』を持って
世界に目を向け始めた時代なんだなと感じるんですよね。」

「一般的な感覚で言えば、
60年代後半からJALパックが始まり、
70年代頭からドル円が固定相場から変動相場に移行し始めた
それで日本人が海外に出やすくなっていったんだよね。
ハワイとかグアムとかに行き始めて、
一方で、シベリア鉄道でヨーロッパへ行くとか、
インドフリークとかが出始めたのが70年代。」

K.「なるほど」

「それから10年経って、80年代ってのは、
それが丁度一巡して、次のサークルがもう一回り大きくなった。
だから、僕みたいな人間も『海外に行ってもいいかな?』
ってそう思えるような時代になった。」

K.「ロケットの第二段階なんですね。」

「そうそう。だからバックパッカーじゃなくても
新婚旅行で海外にいこうかなって人も出てきた時代になっていたんだろうね。」

K.「その中でも、カンボジアにいらっしゃって、
ユネスコのコンサルになる段階では
在る程度カンボジアで長い期間腰据えてやるぞ!って気持ちはあったんですか?」

「全然そんなことない。
僕はタイでやっていたから、
ユネスコからコンサルってことで依頼を受けたんだよ。
実際には予算も少なくて、持ち出しもかなりあったんだけどね(笑)
でもある人に、
『森本さんユネスコのコンサルっていうのはステータスがあるんだから、
それをちゃんと利用しないと』って言われてね。」

K.「なるほど」

「実際、個人で活動を始める時も
ユネスコのコンサルをやっていた森本ですっていうと、
ちゃんとステータスとして使えるんだよね。
ユネスコの後光はちゃんと後ろから射してたんだよ(笑)」

K.「使えるものはなんでも使わないとね(笑)」

K.「こちらで活動を続けていく上で、
カンボジアの人達に、アイデンティティを取り戻す、
もしくは新たに築いていくかっていうこと、
または、ダイレクトに雇用を生み出していくという価値も生まれているわけですけど、それはやっぱり、森本さんのなかでは
そうすることにモチベーションを感じてらっしゃるんですか?」

「そうですね。
つーか、逆にね、いままでウチは
織物をやっているNPOという限定された見方しかされなかった。
でも、実際にウチがやっている仕事は違う。僕らは『村を創っている』んだよ。
ウチがやってきた仕事ってのは織物を作り出すその全体なんだよ。」

K.「それって要は、衣食住と学ぶ場所と
いわゆる村って言うのが機能するために
必要な場所を一つずつ創ってきたってことですよね。」

「そう。ウチはそれを実践してる。」

K.「それは森本さんがカンボジアにいらっしゃった時に、
そういう場、そういう人が生きるための場が不足していると感じられたんですかね?」

「仕事が無い。そういう人達がたくさん居た。」

K.「今だと、職業訓練とかに絞った活動をするNPOとかもあるじゃないですか?」

「僕はいつも言うんだけど、国連でもそうだけど、
職業訓練のための訓練をしているケースはいっぱいあるんだよ。
職業訓練を終えた後に食えないケースがたくさんあるのさ。
彼らにとったら職業訓練をしていることに意味があるのさ。
そんな訓練必要ないさ。」

K.「おっしゃる通りですね。」

「彼らは年次報告で、
『これをしてます!』というためにやってる。
だからそんないらない。と僕はそう思ってる。」

K.「つまり、全てが自己完結するような仕組みを創る気が無い…」

「そう、リアリティが無いものには意味が無い。」

K.「良いっすね。僕『リアリティ』って言葉が好きなんですよね(笑)」

「僕はずっとタイでそういう現場を嫌になるほど見てきた。
いろんなNPOとかプロジェクトとかが失敗している姿を山ほど見てきたから。」

K.「なるほど。」

「僕は基本、批評とか批判はしないさ。ていうのは
言葉の意味って言うのはそこでしかないから。」

K.「そうですね。」

「実際に僕がいまやっている『村を創る』は
そういった無意味なものに対する僕の対案さ。
『こういうことが出来るんだよ』っていうね。
それを形で示している。
それが僕の言葉さ。」

K.「説明する必要はないってことですね。」

「それが僕の言うリアリティ。」

K.「それってちょっと昔まで、
日本人が一番得意とするものだったのかなって思うんですよね。」

「うん。もしかしたらね。」

K.「手に仕事を持ってね。面白いな~」



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③へつづく

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