2012-04-21

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾 森本喜久男さん①

『いま、世界を変えている日本人』 第三弾目は
アンコールワットで有名な都市、
カンボジアのシェムリアップでお会いした森本喜久男さんです。

《プロフィール》

Facebookプロフィールより

1948年生まれ
京友禅の親方、タイ難民キャンプでのボランティアを経て、
タイの村で伝統織物の復興に携わる。

その後カンボジアに拠点を映し、
1995年以来、カンボジアの伝統的な織物技術の復興、
それによる伝統の再生、および自然環境と生活圏(村)の構築を手がける
IKTT(クメール伝統織物研究所)『伝統の森』の代表を務める。

詳しくはこちらクメール伝統織物研究所HPをご参照ください。
→http://iktt.esprit-libre.org/

《インタビューの前に》

私達は今回のインタビュー前後で
森本さん達が運営するIKTTのショップと
創り手やその家族たちが生活している村である『伝統の森』を訪れました。

まず、ショップに並んでいる布は
私達のような素人の目にも
質の良さを感じさせるものです。



お値段も、カンボジアの平均的なお土産などとは比べ物にならないほど立派なもの(笑)。
ですが、このシルクを求めて世界中からお客さんがいらっしゃるそうです。

続いて、こちらは村の様子です。


村の中心部にはこのように織物を造る
道具がびっしり揃っています。


機織りの作業を見ていると
一枚の布が出来るまでに
文字通り気の遠くなるような作業が行われるんだな~と実感し、
感動してしまいました。

また村の中で遊ぶ、子どもたちの笑顔も印象的。


そしてこの村のスゴイ所は
織物に関する全ての素材が、村の中だけでそろえられるということです。

蚕はもちろん、
染付に使う様々な植物も育てられています。

まさに自給自足。
そんな村から世界トップレベルのシルクが造られているんです。


こんな村を造った森本さんとは一体どんな方なのか?
是非インタビュー本文をお楽しみください

《森本さんインタビュー》
K→賢太郎、C→千明、それ以外のコメントは森本さん

Q、IKTT(クメール伝統織物研究所)について

K.「IKTTを始めたのはおいくつの時なんですか?」

「僕は30年前にタイで同じようなことを始めていたから、
まぁ、ここ(シェムリアップ)で始めたのは2000年からですね。」

K.「森本さんが、、、」

「51だね。」

K.「なるほど」

「始めてからは倍々ゲームで売り上げも、働く人も増えて一時期は500人を越えていたんだよね。だけど3年ぐらい前から『量より質』にシフトしたの。
人はいま500人から300人ぐらいになったんだけど、、
みんなね、腕が上がっているから、500人当時よりも生産量が上がっているんだよね。」

K.「逆に?」

「そう逆に。やっぱりみんなのスキルが上がってるんだね。
みんなにも『量は作らんでいいから、良いもの創れ』って言ってる。」

K.「なるほど」

「うちは、一枚の布が出来るまでに一年かかるんだよ。」

K.「一年?」

「一年かかる。だからその話をして、
実際に生地ができたのが二年前。」

K.「一年後ですね。」

「面白いのがね、今まで一枚100ドルで売っていたのに、
これまでの倍に近い手間をかけて、見た目にも良くなっているから、
僕は『150ドルで売ってもいいよ』って言ったんだけど、
みんな戸惑いがあったんだよね。」

K.「へぇ~」

「それで実際にそれをここ(IKTTのショップ)に並べてみたの
そしたら二時間後にそれが150ドルで売れちゃった(笑)。」

K.「面白いですね(笑)」

「みんなそれから『やっぱり良いもの創ったら高くても買ってもらえる』
って実感したね。実際、値段は上がっているんだけど、
新しいバージョン、つまりより良いものの方が売れるんだよね。」

K.「へぇ~」

「うちはほら、うちの事をちゃんとわかってて来てくれるお客さんが多いからね。
布が好きな人が世界中からくるから、すると高くても良いものは売れるんだよね。」

K.「それは創り手の方には自身になりますよね。」

「もちろん。」


Q、森本さんご自身について

K.「ご出身は京都でいらっしゃいますね?」

「そうです。」

K.「元々友禅の職人さんの家庭にお生まれなんですか?」

「いや、うちは父親は普通のサラリーマンでね。
僕は10代の頃、油絵描きを目指していて
そして15、6の頃にアリストテレスの芸術論、ヘーゲルの『美学』とかね。
ああいったのを一生懸命読んでる時期があって、
その時代に他にも社会学、哲学、経済学なども読んでたんだね。

K.「なるほど。」

「僕は日本出てもう30年になるけど、
新聞もテレビも一切見ない。だけど大体分かるんだよね(笑)」

K.「歴史を学んでいると、在る程度社会の次の段階が
予想できますもんね。」

「そうそう。次のステージが見えてくる」

K.「そっか、じゃあ哲学的な思考というのは
若いころから鍛えられていたんですね。」

K.「そうだね。僕が昨日も話した
人間経済学、いわゆる数量じゃない、お金じゃない
ヒューマンエコノミックスに転換していくであろうというのは、
そういう僕のいろいろ学んできたことがあるからだろうね。」

K.「且つ、これまで実際に現場で経験されてきたことが
合わさってという感じですよね。もう一つの直感のようなものですね?」

「そうだね。」

K.「いまはこちら(IKTTのショップ)にお住まいなんですか?」

「うん居候してるの(笑)。三、四家族と同居してる。」

K.「みなさん、創り手の方ですよね。」

「僕本当は、ここから30キロ行ったところに村を創って、
そこで子ども入れたら200人近くの人が暮らしてるんだよね。」

K.「呼び名とかじゃなくて、本当に村なんですね?」

「本当に村を創ったの(笑)。
38家族が一緒に暮らして、周辺の村から通ってくる人達もいる。」

K.「面白いな~。」

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Q、カンボジアでの活動のきっかけ。

K.「話が前後しちゃうんですけど、そもそも、なぜカンボジアで始められることになったんですか?」

「一つはね。タイでやってるときに、
カンボジアのユネスコから声かけられたんだよね。
調査を依頼されて、当時まだ内戦終わってなかったから
94年に僕が来て」

K.「94年!?」

「そう。本当はね93年にユネスコの織物復興プロジェクトってのが始まって
それを手伝ってくれって言う話があったんだ。けど、
(トル、予算が無くて)実現しなかった。

その時に僕が90年に
アメリカのテキスタイルとか、人類学をやっている人達と
タイの調査を一緒にやったことがあって。

その時のメンバーがそのまま
ユネスコのカンボジアのメンバーに93年に来て、
『お前もこいよ』って誘われたんだけど、
予算が無くて実現しなくて

まぁ、そんな関係もあってユネスコのスタッフの顔を知ってた。
たまたま94年ココに来て
織物やってる村を見たいって

当時は街の外にでるのも大変な時期で、
でも、織物やってるといわれる村を訪ねて、

ユネスコのスタッフは事前に何度か調査をやっていたんだけど、
そちらは『ここに自然染料の織物の技術は無い』って断言してた。

ところが僕は
昔織物をやっていた形跡とか、その素材とかを見つけたのね。」

K.「へぇ~」

「言葉は全然通じないけどね、
実際に僕はその前に10年タイでやってきたでしょう、
だから、村の職人が道具をどこにしまうかとかわかるの。

K.「そうか。」

「だから、僕はそこに探しにいって、そしたら見つけちゃった(笑)。」

K.「面白い」

「その話をプノンペンに戻って、ユネスコのオフィスの人に話したら
『やっぱり素人じゃなくて、プロが調査しないと駄目なんだな』って話になって
それで僕に95年から改めて調査の依頼が来た。」

K.「なるほど」

「そこからユネスコのコンサルとして半年間活動してね。」

K.「それがカンボジアに来るきっかけなんですね。」

Q、タイでの活動のきっかけ。

K.「もっと話戻っちゃうんですけど、
そもそもなんでタイで10年も活動することになったんですか?
それまではずっと京都で友禅の職人をされていたんですよね?」

「それはね、バンコクのスラムの天使って
呼ばれていたプラティープさんっていう女性がいてね。

K.「プラティープさん?」

「そう。彼女が1978年(ぐらい)にマグサイサイ賞をもらって
79年に日本の宗教者平和会議が彼女を日本に招待したの。」

K.「なるほど」

「その時に10日間ぐらい日本に滞在して、
一日京都だった。僕の友達がそのスケジュールを管理していて
他の日はびっしりスケジュールが詰まっていたから、
間の一日ぐらい休ませてあげたいと彼は思ったんだね。
僕はその時、京都で友禅の工房をやっていたから
『京都友禅工房の見学』という名目で、
実はうちで休んでもらった(笑)」

K.「不思議な御縁ですね~(笑)」

「それがきっかけで彼女と知り合って、
僕ははじめてバンコクという街があって、スラムがあって
そこにたくさん人が住んでいるっていうのを知った。
それが79年。」

K.「79年。」

「そして80年の3月に彼女を訪ねてバンコクへ。
でその時に、当時カンボジアの人達は難民になって、
難民キャンプをつくっていた。
なので僕がバンコクに行くといったら
友達が『難民の人達に何か届けてくれ』って言って
衣類とかたくさん託された。」

K.「なるほど」

「それでバンコクのNGOの事務所に行って、
物資を届けたのが一つと、あとは十日間ほどスラムにも滞在して、
先生(プラティープさん)の家に泊めてもらって。

当時ね
バックパッカーのはしりの時代だったの
そういう日本人がね、世界中からバンコクに集まって
ボランティアとかしてたんだよね。

面白い人いっぱい居て、
『世界100カ国回ってきたよ』とかね
そういうツワモノみたいな熱い
連中がボランティアでバンコクに集まってた。

僕はそういう人達とその時バンコクで飯くったりしながら
いろんな話聞いてね。『面白い人達がいるな~』と(笑)」

K.「本当にそうですね(笑)」

「で、みんなが沼地にどぶ板並べて住んでいる様なスラムなんだけど、
みんな楽しそうに暮らしてるんだよね。
僕はそれを見てね。リアルスラムのマイナスのイメージがあるでしょ。
でも、その中で、そうやって強かに生きている人がいる。

で面白いのがね、
僕はその中であるじっちゃんと話したことがある。
その人はスラムのコミッティーのメンバーなんだけど

スラムの表までは電気が来ている。
けれどスラムの中は不法滞在者だから電気は来てないんだよ。

でもね。表の電線を自分達で切って
そこからスラムの中に電気を引くんだよ。
引くと、その線を切られる、切られるとまた引く。
それをいつもやってんだって、
笑いながらそう言う話をする人達が居る。

僕はね。

それまで友禅の職人をしていたけど、
やっぱりふっきれたもんがあったんだよね。

自分が丁度友禅を10年やってきて、
親方として弟子もいたんだよ。

丁度30過ぎててね

人生を半分来た。
後半の人生自分はどう生きるのか?
そういう疑問を丁度自分に投げかけていた時期でもあったんだよ。」

K.「三十いくつの時ですか?」

「31。その時、そういう人達と出逢った。

K.「衝撃的ですね。」

「僕がね京都で友禅の職人をやっていて、
まわりに大先輩もいるわけよ。
師匠格の50~60の人で、
伝統工芸士の資格をもらって、
職人20人から30人抱えて
ちっちゃなビル建ててね。

でもね、僕が30の時に
『それはオレの未来じゃないな。』
って思ったの。」

K.「じゃあ、その時に海外に行きたいという想いがあったわけでも無いんですね。」

「無い無い。たまたま(笑)」

K.「なるほど、本当に御縁ですよね。
お話を伺うまでなぜ友禅の職人さんが
カンボジアやタイに行くことになったのか不思議に思っていたんですよ。」

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②へつづく

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